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佐久間盛郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
佐久間盛郎
時代 江戸時代
生誕 慶長9年(1604年
死没 寛文5年12月12日1666年1月17日
改名 定良(初名)→盛郎
別名 通称:総太郎、外記、宇右衛門
戒名 宗陽
墓所 東京都新宿区四谷の全勝寺
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家光家綱
氏族 佐久間氏
父母 父:佐久間信実
兄弟 信由、盛郎
多賀常勝娘
盛置、信就、盛久、盛重(佐久間盛久養子)、盛従
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佐久間 盛郎(さくま もりよし)は、江戸時代前期の旗本

元和6年(1620年)、家督(上総国茨葉村の内1000石)を相続。翌7年(1621年)、御書院番に列せられた。同9年(1623年)、徳川家光の上洛に供奉した。 寛永10年(1633年)2月7日、武蔵国忍の内に200石を加増されたが、後に自ら願い出て蔵米に改められた。寛永16年(1639年)2月15日、市谷門普請の奉行を務めた。

寛永20年(1643年)10月10日、医師・慶悦と共に土井甚十郎宅を訪問した帰途において、不意に慶悦に斬りつけられた。理由を糺すため捕縛しようとするも従者らが慶悦を殺害。盛郎も「殺すな」とは言わなかったが、そのことも含めて幕府にはそのまま正直に届け出た。盛郎は取調べを受けたが、従者らの証言とも食い違いはなく、特に問題はなかったということで、慶悦が突然の狂気によって凶行に及んだものとして、盛郎にはお咎めはなかった。

慶安2年(1649年)4月、徳川家綱日光参拝に供奉した。同年10月18日、幕府の命により林勝正と共に越前国福井に赴き、松平光通の後見役を務めた。翌3年(1650年)9月3日、西城御小姓組に異動。慶安4年(1651年)6月28日、酒井忠当に預けられていた加藤忠広の母が没した際、検使として出羽国庄内に派遣された。寛文3年(1663年)4月、日光参拝において諸道具奉行を務めた。

寛文5年(1666年)、没。

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佐久間盛郎
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