何礼之
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何 礼之(が のりゆき(れいし)、天保11年7月13日(1840年8月10日) - 大正12年(1923年)3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した日本の翻訳家、幕臣、官僚、教育者。通称は礼之助。姓は「か」ではなく「が」と読む。幕末の長崎で創設した私塾は、塾生が300名を越え、維新後に活躍する多くの人材を育てた。開成所(現・東京大学)教授を務め、大阪洋学校(現・京都大学)の創設者でもある。岩倉使節団の一員としても活躍し、自由民権運動に大きな影響を与えるなど、教育者、外交官、翻訳者として、様々な立場で日本の近代化に多大な貢献をした[1][2]。翻訳局長、元老院議官、貴族院議員も務めた[3]。