cover image

元寇

13世紀後半の元による九州への襲撃 / ウィキペディア フリーな 百科事典

親愛なるWikiwand AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:

トップの事実と統計を挙げていただけますか 元寇?

この記事を 10 歳向けに要約してください

すべての質問を表示

元寇(げんこう)は、日本鎌倉時代中期の1274年1281年に、モンゴル帝国元朝)および属国高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。蒙古襲来とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。

Quick facts: 文永の役, 交戦勢力, 指導者・指揮官, 戦力, 損害...
文永の役
M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba.jpg
蒙古襲来絵詞』より文永の役の鳥飼潟の戦い
戦争:元寇
年月日1274年11月4日-19日
文永11年10月5日-20日/至元11年10月5日-20日
場所日本の旗 日本九州北部
結果:日本の勝利
モンゴル帝国元朝)・高麗連合軍の撤退
交戦勢力
Sasa_Rindo.svg 鎌倉幕府
指導者・指揮官

執権 北条時宗

博多
鎮西西方奉行 少弐資能[1]
鎮西東方奉行 大友頼泰[1]
西方奉行一門 少弐経資
西方奉行一門 少弐景資
東方奉行一門 戸次重秀
肥後御家人 菊池武房
肥後御家人 竹崎季長
肥前御家人 白石通泰
肥前御家人 福田兼重
豊後御家人 都甲惟親
豊後御家人 日田永基
筑後御家人 光友又二郎
不詳 三井資長

対馬
対馬守護代 宗資国 
壱岐
壱岐守護代 平景隆 
肥前沿岸
松浦党 佐志房 
松浦党 佐志直 
松浦党 佐志留 
松浦党 佐志勇 
松浦党 石志兼
松浦党 石志二郎
松浦党 山代階
 


皇帝 クビライ(忽必烈)

総司令官
東征都元帥 ヒンドゥ(忻都)→クドゥン(忽敦)[2]
蒙古・漢軍
東征左副都元帥 劉復亨
東征右副都元帥 洪茶丘
昭勇大将軍 アラテムル(阿剌帖木児)[3]
管軍万戸 某[4]White_flag_icon.svg
不詳 三没合
[5]
高麗軍(三翼軍)
以下三翼軍内訳

中軍

都督使 金方慶

  • 知兵馬事 朴之亮金忻
  • 副使 任愷
左翼軍

左軍使 金侁 

  • 知兵馬事 韋得儒
  • 副使 孫世貞
右翼軍

右軍使 金文庇

  • 知兵馬事 羅裕朴保
  • 副使 潘阜[6]
戦力

兵力不明

総大将・少弐景資手勢 500余騎[7]
肥前御家人・白石通泰手勢 100余騎[8]
肥後御家人・菊池武房手勢 100余騎[9]
元史』では10万[10]
八幡愚童訓』各写本により記載兵力異同(詳しくは八幡愚童訓#諸本研究と記載の異同を参照)

兵船300余艘[11]

総数 27,000〜39,700人[12]

蒙古・漢軍 15,000[13]〜25,000人[6][14][15]
高麗軍 5,300〜8,000人[16]
高麗水夫 6,700人

軍船 726〜900艘

千料舟 126[17]〜300艘
バートル(抜都魯)軽疾舟 300艘
汲水小舟 300艘
[18]

損害

総損害

日本人195人戦死、下郎は数を知らず[19]
戦闘による両軍戦死者多数[20]
対馬
対馬守護代 宗資国以下80余騎戦死
[21]
壱岐
壱岐守護代 平景隆以下100余騎戦死
[22]
肥前沿岸
松浦党 佐志房以下数百人戦死


不帰還者 13,500余人[23]

戦闘による両軍戦死者多数[20]

座礁船 約150艘

(日本側が確認できた数)
対馬1艘、壱岐130艘、小呂島2艘、志賀島2艘、宗像2艘、カラチシマ3艘、アクノ郡7艘および壱岐3艘
[19]

指揮官

東征左副都元帥 劉復亨負傷
管軍万戸 某投降
高麗軍左軍使 金侁溺死

Close
Quick facts: 弘安の役, 交戦勢力, 指導者・指揮官, 戦力, 損害...
弘安の役
Takezaki_suenaga_ekotoba3.jpg
弘安の役の御厨海上合戦(『蒙古襲来絵詞』)
戦争:元寇
年月日1281年6月8日-8月22日
弘安4年5月21日-閏7月7日/至元18年5月21日-8月7日
場所日本の旗 日本九州北部
結果:日本の勝利
モンゴル帝国元朝)・高麗連合軍の壊滅
交戦勢力
Sasa_Rindo.svg 鎌倉幕府
指導者・指揮官

執権 北条時宗

総司令官
鎮西(異国征伐)大将軍 北条実政
諸将
鎮西西方奉行 少弐経資
鎮西東方奉行 大友頼泰
西方奉行一門 少弐資能 
西方奉行一門 少弐景資
西方奉行一門 少弐資時 
東方奉行一門 戸次重秀
関東御使・軍奉行 合田遠俊
肥後守護 安達盛宗
薩摩守護 島津久経
筑後御家人 香西度景
豊後御家人 都甲惟親
豊後御家人 都甲惟遠
肥後御家人 竹崎季長
肥後御家人 菊池武房
肥前御家人 福田兼重
肥前御家人 福田兼光
肥前御家人 山代栄
肥前御家人 龍造寺家清
肥前御家人 龍造寺季時 
肥前御家人 藤原資門
筑後御家人 西牟田永家
薩摩御家人 島津長久
薩摩御家人 比志島時範
伊予御家人 河野通有

鎌倉幕府関東御家人 舩原三郎
六波羅派遣軍
六波羅大将 宇都宮貞綱(到着以前に元軍壊滅のため戦闘未参加)


皇帝 クビライ(忽必烈)

総司令官
日本行省左丞相 アラカン(阿剌罕) → アタカイ(阿塔海)
東路軍
東征都元帥 ヒンドゥ(忻都)
東征都元帥 洪茶丘
征日本都元帥 金方慶
東征左副都元帥 アラテムル(阿剌帖木児)[3] 
管高麗国征日本軍万戸 朴球
管高麗国征日本軍万戸 金周鼎[24]
管軍万戸 イェスデル(也速䚟児)
管軍万戸 王某
管軍千戸 ダイタシュ(大塔失)[25]
管軍千戸 李行里[25]朝鮮王朝の追号王・翼祖
管軍上百戸 張成
郎将 康彦 
郎将 康師子
 
江南軍
日本行省右丞 范文虎
日本行省左丞 李庭
都元帥 ナンギャダイ(嚢加歹)
都元帥 カラダイ(哈剌䚟)[26]
都元帥 張禧
管軍万戸 ギラダイ(吉剌歹)
管軍万戸 厲徳彪
管軍副万戸 邢タルグタイ(邢答剌忽台)
寿春副万戸 呉安民
管軍総管 楚鼎
招討使 王国佐
水手総管 陸文政
池州総把 マハマド(馬馬)
[27]
所属不詳
招討使 クトカス(忽都哈思)[28] 

戦力

兵力不明

江戸時代に編纂された『歴代鎮西要略』によると25万騎[29]。なお同書は、対する元軍の兵力を「幾百万とも知らず」と記載してある[30]
六波羅派遣軍 60,000余騎
到着以前に元軍壊滅のため戦闘未参加[31]


総数 140,000〜156,989人および江南軍水夫

『元史』阿剌罕伝では蒙古軍 400,000人 [32]

東路軍 40,000[33][34]〜56,989人[35]

  • 蒙古・漢軍 30,000
  • 高麗軍 9,960
  • 水夫 17,029[36]

江南軍 100,000人[37]

軍船 4,400艘

東路軍軍船 900艘[17][40]
江南軍軍船 3,500艘
[37]

損害

不明

指揮官
鎮西西方奉行一門 少弐資能戦傷死
鎮西西方奉行一門 少弐資時戦死
肥前御家人 龍造寺季時戦死


不帰還者
84,000〜141,290人
[41][42][43][44][45]

高麗兵・東路軍水夫不帰還者7,592人/生還者19,397人[36][46]

捕虜
20,000〜30,000人
[47]
指揮官

招討使 クドゥハス(忽都哈思)戦死
東征左副都元帥 アラテムル(阿剌帖木兒)溺死
郎将 康彦戦死
郎将 康師子戦死

Close

とくに2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であった[48]

Oops something went wrong: