利用者:赤の旋律/下書き/ジブラルタルの歴史
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ジブラルタルの歴史では、南部イベリア半島の海岸にあり地中海の入り口となっている小さな半島ジブラルタルの、2900年あまりの歴史について扱う。ジブラルタル半島は、古代には神聖な地であったが、今ではある歴史家をして「ヨーロッパで最も密に要塞化され、またその地をめぐって戦われたことの多い場所」と言わせるに至った[1]。ジブラルタルはその位置故にヨーロッパの歴史の中で大きな重要性を持ち、中世に作られた要塞都市は何世紀にもわたって数多くの包囲と戦闘を受けた。
as of 17:08, 19 August 2013
ジブラルタルには5万年以上前ネアンデルタール人が初めて住み着き、彼らは2万4千年前に絶滅するまでジブラルタルに住んでいたかもしれない。記録された歴史としては、近隣に入植したフェニキア人による記録が紀元前950年に残されている。後のカルタゴ人とローマ人は、彼らがMons Calpe(神聖な山)と呼び、ヘラクレスの柱の一つと考えたジブラルタルの岩に建てられたと言われる神殿でエルキューレを崇拝した。
ジブラルタルはローマ帝国の崩壊後、ヒスパニアの西ゴート王国の一部となり、711年からはイスラム教徒のムーア人の下に統治された。 ジブラルタルは初めてムーア人によって恒久的に入植され、Jabel Tariq(Tariq山)と改称された。その後「ジブラルタル」と転訛した。カスティリヤ王国が1309年にジブラルタルを征服したが、1333年にはムーア人に奪回され、1462年に再び征服した。ジブラルタルは統合されたスペイン王国の一部となり1704年までスペインの統治下にあった。スペイン継承戦争の間にスペイン王位を主張したカール6世の名のもとにイギリスとオランダによって占領され、1713年のユトレヒト条約によってスペインからイギリスに譲られた。
イギリスが王室領土と宣言したジブラルタルをスペインは軍事的、外交的、経済的圧力を持って取り返そうとした。スペインはイギリスとの3つの戦争の間にジブラルタルを包囲し、激しく砲撃を加えたが、その度に撃退された。18世紀後半の最後の包囲の終わりまでに、ジブラルタルは500年で14回もの包囲を受けている。トラファルガーの海戦後の数年間、ジブラルタルは半島戦争での主要な基地となった。19世紀から20世紀前半の間にジブラルタル植民地は急速に成長し、イギリスの地中海領土の最も重要なものとなった。スエズ運河を経由してインドへ至る船舶の重要な寄港地だったのである。19世紀の終わりには巨費を投じてイギリス海軍の基地が建設され、ジブラルタルの経済の背骨となった。
イギリスのジブラルタル統治によって第二次世界大戦の間連合軍は地中海の入り口を抑えることができた。ジブラルタルはドイツやイタリア、ヴィシーフランスの軍に何度か攻撃されたが、大きな被害は受けなかった。スペインの独裁者フランコ将軍はドイツのジブラルタル占領計画に加わることを拒否したが、戦後ジブラルタルに対する領有権を再び主張した。領土紛争が大きくなるにつれ、スペインは1969年から1985年に渡ってジブラルタルとの国境を封鎖し、通信リンクは制限された。スペインの立場はラテンアメリカ諸国から支持されたが、イギリスと、自決の権利を強く主張するジブラルタルの住民自身は要求を拒否した。スペインとイギリスの間の議論は未だに続いており、全く結論には達していない。
1985年からジブラルタルは、イギリスの海外派兵が小さくなった結果として、大きな変化を経験している。イギリスの軍の多くはジブラルタルを去り、ジブラルタルはもはや大きな軍事的重要性を持つとは見られなくなった。その経済は今では観光や金融サービス、海運、インターネットギャンブルに頼っている。ジブラルタルは大きく自治を認められており、自身の議会と政府を持つが、防衛と外交に関してはイギリス政府が責任を保持し続けている。ジブラルタルは経済的に成功し、ヨーロッパ連合の中で最も豊かな地域の一つとなっている。.