利用者:EULE/火薬陰謀事件メモ/ロバート・ケイツビー
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en:Robert Catesby 12:38, 2 May 2021 / ロバート・ケイツビー
Robert Catesby | |
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ロバート・ケイツビー(1794年、作者不明) | |
生誕 |
(1572-03-03) 1572年3月3日かそれより後 ウォリックシャーのブッシュウッド・ホール(Bushwood Hall) |
死没 |
(32-33歳) スタッフォードシャーのホルベッチ・ハウス(英語版) |
死因 | 射殺 |
別名 | ミスター・ロバート、ロビン・ケイツビー |
刑罰 | 遺体に対する斬首 |
配偶者 | Catherine Leigh |
子供 | William and Robert |
親 | William and Anne (née Throckmorton) Catesby |
動機 | ジェームズ1世及び側近らの暗殺(火薬陰謀事件) |
ロバート・ケイツビー(Robert Catesby、1572年3月3日頃 - 1605年11月8日)は、イングランド史において、プロテスタントのイングランド国王ジェームズ1世を暗殺し、カトリックの君主に挿げ替えようとした1605年の過激派カトリック教徒らによる火薬陰謀事件の首謀者。
イングランドのウォリックシャーにて、リチャード3世時代以来の名門かつ熱心なカトリック教徒であるケイツビー家の三男として生まれる。その後、未だカトリックの影響が強かったオックスフォードのグロスター・ホール(英語版)で高等教育を受けるも、おそらくイングランド王室への忠誠を誓わせる至上権承認の宣誓を嫌って、学校を中退した。1593年に裕福なプロテスタントの女性と結婚し、2人の子供を授かってプロテスタントの洗礼を受けさせるなど、一時は穏健派となるが、1598年に妻が亡くなると、過激派に回帰する。1601年にはエセックス伯の反乱(英語版)に加担し、助命されるも多額の罰金を科され、チャスルトン(英語版)の地所を売却した。しかし、諦めることはなく、カトリックの旗手である大国スペインの援助を求めたり(スペイン反逆事件)、イングランド国内で密かに活動するイエズス会神父たちの支援を行っていた。
1603年にイングランド王としてジェームズ1世が即位すると、多くのカトリック教徒たちはカトリックへの寛容政策を期待していたが、次第に失望に変わった。その一人であるケイツビーは貴族院(ウェストミンスター宮殿)で行われる議会開会式にて、議場を大量の火薬をもって爆破し、ジェームズ及び政府要人らをまとめて暗殺した上で、同時にミッドランズ地方(英語版)で民衆叛乱を起こし、カトリックの傀儡君主を立てることを計画した。 1604年初頭には、トマス・ウィンター、ジョン・ライト、ガイ・フォークス、トマス・パーシーといった有力な同志たちを集め、計画準備を進めていった。
しかし、陰謀を密告する匿名の手紙に基づき、イングランド当局は計画決行日の前日である1605年11月4日の深夜にウェストミンスター宮殿の捜索を行い、貴族院の地下室にて、大量の火薬とそれを管理していたフォークスを発見し、計画は露見した。 フォークス逮捕の連絡を受けたケイツビーは、ロンドンを脱出した仲間と共にもう一つの反乱計画があるミッドランズに向かい、最後の抵抗を試みようとした。ところが、ロンドンの情報が広がったことによってもはやケイツビーらを支持したり協力を申し出る者はおらず、計画は頓挫した。11月8日の早朝に、滞在していたスタッフォードシャーのホルベッチ・ハウス(英語版)を、ウスターの州長官率いる200人の部隊に襲撃され、その戦闘の中でケイツビーは射殺された。 その遺体は一度は埋葬されるが、後に掘り起こされ、大逆罪の罪人として斬首されて、議会の外に晒し首にされた。