北条氏隆
戦国武将。北条綱重の子 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
北条 氏隆(ほうじょう うじたか)は、戦国時代から江戸時代初期の人物。号は筥根寄斎。相模国久野城(小田原市)城主[2]。
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永禄12年(1569年)に父・北条氏信が武田氏の駿河侵攻で戦死したため、上杉謙信の養子となった北条三郎(上杉景虎)に代わり、北条幻庵の跡を継ぐ。
天正10年(1582年)頃に元服し、翌年1月4日付けで西群底倉(神奈川県箱根町)での禁制が初見発給文書である[4]。
小田原征伐による後北条氏没落後は、北条氏直に従って高野山へ赴いた[2]。翌19年9月には、出家して鈞庵宗仙と称し、高松藩丸亀城の生駒家に仕えた後、京都に在住していたことが、板部岡江雪斎らとの書状から判明している[2]。
慶長14年(1609年)に死去、法号は養靏院殿松壡仙公居士。氏隆の死去により久野北条家も断絶となった[5]。
注釈
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出典
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- 北条早雲とその一族 2007, pp. 171.
- 『北条家過去帳』
- 北条早雲とその一族 2007, pp. 171–172.
- 北条早雲とその一族 2007, pp. 173.
- 下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年。ISBN 4-490-10696-3。
- 黒田基樹『北条早雲とその一族』新人物往来社、2007年7月。ISBN 978-4-404-03458-8。
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