北条貞房
鎌倉時代後期の武士 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
「北条貞房」のその他の用法については「北条貞房 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
北条 貞房(ほうじょう さだふさ[1]、文永9年(1272年)[1] - 延慶2年12月2日(1310年1月3日)[1])は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。通称は大仏(おさらぎ)貞房。
父は大仏流の北条宣時[1][2]。元服時に得宗家当主・北条貞時より偏諱を受けて貞房と名乗る[3][注釈 1]。
当初は、引付衆や評定衆を歴任した。官位も、正応2年(1289年)12月29日には式部大丞[1]、同3年(1290年)3月7日には従五位下[1][5](同年8月23日に引付衆[1])、永仁3年(1295年)12月29日には刑部少輔[1]、嘉元4年(1306年、のち徳治に改元)7月19日には越前守[1][5]、(徳治2年(1307年)12月13日に評定衆[1]、)徳治3年(1308年)2月7日には従五位上[1][5]となり、昇進を重ねた。
その後、延慶元年(1308年)11月20日[6]から六波羅探題南方として上洛・赴任している[1][5]。延慶2年(1309年)12月2日、京都にて38歳で死去[1][5]。
注釈
[脚注の使い方]
出典
- 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その77-大仏貞房(細川重男のブログ記事)より。
- 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年、p.15系図・P.21。
- 『尊卑分脈』
この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 |