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吉川経見

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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吉川経見
時代 南北朝時代 - 室町時代中期
生誕 不明
死没 永享7年10月19日1435年11月9日
改名 経見→法秀(法名)[1]
別名 経春
官位 左衛門尉[1]駿河[1]
幕府 室町幕府
主君 南朝→北朝
氏族 藤原南家工藤流吉川氏
父母 父:吉川経兼[1] 養父:吉川実経吉川経秋
弥徳(吉川経秋の娘)
経信[1]、経憲、経茂
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吉川 経見(きっかわ つねみ)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての武将安芸国国人吉川氏8代当主。小倉山城主。

生涯

この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: "吉川経見" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年5月)

安芸吉川氏の分家石見吉川氏の出身で、建徳2年(応安4年、1371年)、石見国における所領を相続する。

武将としての器量に優れ、安芸吉川氏の内紛を鎮圧し所領のほとんどを併合した。その実力から、男子のいなかった本家当主・吉川経秋より家督を継承し、九州探題今川了俊に従軍して九州を転戦した。応永10年(1403年)には、毛利光房、宍戸家秀、小早川義春、平賀貞宗、阿曽沼光郷、香川遠景等と共に南朝方となった熊谷直明の討伐を行い、直明を降伏させた。

応永13年(1406年)には安芸守護武田氏から正式に吉川氏の本家当主として認められ、以後は経見の系統が吉川氏の本家を継ぐこととなった。また、居城を駿河丸城から小倉山城に移している。

応永23年(1416年)、嫡男経信に家督を譲って隠居し、永享7年(1435年)10月19日に死去した。

脚注

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  1. ^ a b c d e 今井尭ほか編 1984, p. 333.

参考文献

  • 今井尭ほか編『日本史総覧』3(中世 2)、児玉幸多小西四郎竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。全国書誌番号:84023599ISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668ASIN B000J78OVQ
  • 萩藩閥閲録
  • 吉川家文書
  • 日本人名大辞典
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