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土肥原・秦徳純協定(どいはら・しんとくじゅんきょうてい、中国語名:秦土協定)は1935年6月に発生した張北事件に端を発し、事件に関与した国民革命軍第二十九軍によるその他の問題を含めて同月27日に取り決められた日華間の協定である。日本側代表の土肥原賢二と中華民国側代表の秦徳純の名が協定名となった。
1934年10月26日午前10時頃察哈爾地方を視察していた日本軍川口中佐の一行8名は張北付近を通りすぎようとしていたが国民革命軍第二十九軍第百三十二師(師長は趙登禹(zh)[1])の衛兵がいきなり青龍刀と自動小銃を突きつけた。このため、一行中の書記生が正式に説明しようと衛兵の指揮者と交渉したが兵士達はこの書記生を殴打するという不法行為を行い不穏な様相を示した。一時間後には日本語を理解する公安局員が立会い事態は収拾されたが、この原因は第二十九軍軍長の宋哲元が日本人旅行者に保護を与えぬとする密命にあった[2]。
先の張北事件の際にはこのような事件は再発させないとの誓約がなされていた。しかし1935年5月30日にトラックで多倫を出発した日本軍特務機関員の一行4名は6月5日午後4時に張北の南門で第百三十二師の衛兵に停車を命じられた。一行は特務機関の身分証明書を提示したが無効であると跳ね付けられ、第百三十二師の司令部に連行され、荷物と旅行用品の厳重な検査が行われてから一部屋に監禁の上、青龍刀や銃剣が突きつけられながら脅迫されて尋問を受け、食事と寝具は与えられずに翌日午前10時に釈放された。監禁は宋哲元の参謀長の命令であり、その他の尋問等の侮辱は軍法署長も知るところであった[3]。
当時の宋哲元軍つまり第二十九軍は張家口に第三十七師、張北に第百三十二師、宣化に第三十八師、保安に暫編第二師を有し、二万の新兵を募集していたため、その兵力は六万から七万を有し[4]、また排日の首魁馮玉祥の元部下であり、その時期にあった熱河戦では喜峰口で日本軍に頑強に抵抗した経験を持つ排日思想の強い軍隊ゆえに中国北部の排日軍閥一掃を望むなら無視できない存在となっていた[5]。関東軍は日頃の宋哲元が日本と満洲に対して挑戦的であったため、この機会をとらえて糾弾することになった[5]。
その翌日、南京政府行政院は宋哲元の罷免を決定した[7]。
6月27日土肥原特務機関長が提出した要求事項全てについて秦徳純が承諾した。回答文書の内容は以下の通りだったが[8]、その発表は行われなかった[9]。
第三項の「日本の察哈爾省内での正当な行為を尊重する」の解釈について土肥原と秦の間の口頭による約束で中国が承諾した主要なものは以下の通りである[10]。
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