基肄城
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基肄城(きいじょう / きいのき、椽城)は、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山(きざん)に築かれた[1]、日本の古代山城。城跡は、1954年(昭和29年)3月20日、国の特別史跡「基肄(椽)城跡」に指定されている[2]。
基肄城は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた古代山城である。665年(天智天皇4年)、大野城とともに築いたことが『日本書紀』に記載されている[注 1]。城郭の建設を担当したのはいずれも亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された、軍事技術の専門家の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)である。また、大野城・基肄城とともに長門国にも亡命百済人が城を建設しているが、城の名称は記載されず、所在地も不明である[3]。そして、『続日本紀』 の698年(文武天皇2年)には、大野城・基肄城・鞠智城の三城の修復記事が記載され[注 2]、『万葉集』にも、「記夷城(きいのき)」と、記載されている[4]。
基肄城が所在する基山は、大宰府の南方8キロメートルに位置する。山麓には、大宰府から南下する古代官道が通り、基肄駅(きいのうまや)で築後国方面と肥後国方面に分岐したとされる要衝にある。基肄城は、標高404メートルの基山の3か所の谷を囲み、その東峰(327メートル)にかけて、約3.9キロメートルの城壁を廻らせた包谷式の山城で、城の面積は約60ヘクタールである。城壁は、ほとんどが尾根を廻る土塁であるが、谷部は石塁で塞いでいる。また、山頂では、北側の博多湾、南側の久留米市や有明海、東側の筑紫野市や朝倉市方面、西側の背振の山並みを一望することができる。古代は、大宰府政庁や大野城・阿志岐山城[5]・高良山神籠石など、他の軍事施設と連携を図れる好位置にある。そのため、基肄城は、大宰府を守る南の防御拠点として、主に有明海方面の有事に備えて築かれたとされている。[4]。
発掘調査では、約40棟の礎石建物跡[注 3]、軒丸瓦・軒平瓦・土器などの出土遺物、頂上部で溜池遺構などが確認されている。城門は、推定2か所を含め、4か所が開く。残存遺構のある城門は、城内北寄りの「北帝(きたみかど)門」と「東北門」である。城内南寄りの「南門」と「東南門」は、あったとされる推定の城門である。城跡見学の玄関口となる南門と一連の水門石垣に[注 4]、土塁とともに基肄城を代表する水門遺構があり、通水口は国内最大級[注 5]である。また、2015年(平成27年)の水門石垣の保存修理で、新たに三つの通水溝が発見された。同一の石垣面に四つ以上の排水施設を持つ古代山城は、国内においては唯一、基肄城のみである[6]。
基肄城の東南山麓に、「とうれぎ土塁」と「関屋土塁」が確認されている[7][注 6]。水城と大野城の関係と同様に、基肄城と対となり、最も狭い交通路を塞いだ遮断城とされている[8]。
天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬~九州の北部~瀬戸内海~畿内と連携する防衛体制を整える。また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城・基肄城と平野部の水城大堤・小水城などで防備を固める。この原型は、百済泗沘都城にあるとされている[9]。
遺構に関する事柄は、概要に記述の通り。
- 1912年(大正元年)、関野貞の踏査研究[10]により古代山城であることが確定した[4]。
- 1928年(昭和3年)以降、久保山善映・松尾禎作が踏査研究を進める。1959年(昭和34年)、鏡山猛が城跡の実側調査を行い、1968年(昭和43年)、『大宰府都城の研究』で実測結果を発表した[7]。
- 発掘調査は、1976年と2003年から3か年、森林整備等に伴う発掘調査が実施された。また、2009年に水門石垣保存修理事業に着手し、新たな通水溝を発見して、2015年(平成27年)に完了した[4]。
- 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[11]。
- 1898年(明治31年)、高良山の列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[注 7]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある基肄城などは、「古代山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 8]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[12]。
1933年(昭和8年)、基肄城を築いた天智天皇を讃えるため「天智天皇欽仰之碑」が建立された[13]。当初は銅像を建立する計画だったが、宮内省(当時)の許可が得られず銅碑となった[13]。土台の基礎石に銘板の痕跡とみられる箇所(縦30センチ×横90センチ)があるが、完成時の写真でははっきりせず、戦時中の金属供出などがあったのかなど詳細は分かっていない[13]。
- 水門遺構の水口
- 基山を望む(とうれぎ土塁より)
- 展望台で南方の小郡~久留米を望む
- 山頂の基肄城跡 中央は霊霊石(「たまたまいし」と呼ぶ)、左後方に天智天皇欽仰之碑
- とうれぎ土塁
- 文化庁文化財部 監修 『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年。
- 小田富士雄 編 『季刊 考古学』 136号(西日本の「天智紀」山城)、雄山閣、2016年。
- 西谷正 編 『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、ISBN 978-4-490-10712-8。
- 小島憲之 他 校注・訳 『日本書紀 ③』、小学館、1998年、ISBN 4-09-658004-X。
- 齋藤慎一・向井一雄 著 『日本城郭史』、吉川弘文館、2016年、ISBN 978-4-642-08303-4。
- 向井一雄 著 『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年、ISBN 978-4-642-05840-7。
注釈
- 『日本書紀』の天智天皇四年(665年)八月の条に、「・・・築 大野及椽 二城」と、記載する。
- 『続日本紀』の文武天皇二年(698年)五月の条に、「令 大宰府 繕治 大野 基肄 三城」と、記載されている。
- 基肄城には、三×五間の総柱礎石建物が23棟あり、大野城と同一仕様である。発掘調査が進めば、大野城と同数の35棟が想定できる(赤司善彦 「古代山城の建物—鞠智城と大野城・基肄城—」『鞠智城 東京シンポジウム 2015』、熊本県教育委員会、2016年、63頁)。
- 石塁は、長さ約26m×高さ約8m×上端幅は約3.3mである。
- 水口は、天井部の長さ9.5m×高さ1.4m×幅1.0mである。
- とうれぎ土塁は長さ350m、関屋土塁は長さ200m(主要部遺構は消滅)である。
出典
- 電子国土基本図(地理情報)ー国土地理院
- 田中正弘 「基肄城と水門石垣の保存修理」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、37-40頁。
- 田中正弘 「基肄城」『季刊 考古学』136号、雄山閣、2016年、29-31頁。
- 向井一雄 「基肄城」『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、126頁。
- 松尾洋平 「古代遮断施設(防塁)についての一考察」『古文化談叢』 第60集、九州古文化研究会、2008年、129-133頁。
- 赤司善彦 「古代山城研究の現状と課題」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、10-13頁。
- “基肄城の“幻”の銘板、写真探しています 銅碑から欠落か 基山町が復旧計画”. 佐賀新聞. 2023年5月29日閲覧。
- 山村信榮 「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業について」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、21頁。
- 基山町図書館 編 『基肄城のヒミツ』、基山町、2014年。