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戦国時代の人物 ウィキペディアから
大内義隆の嫡男で、義隆が39歳の時に生まれた。母は義隆の2番目の正室であるおさいであるが[3]、実は義隆の実子かどうかを疑われていたという[4]。
天文16年(1547年)2月17日には3歳にして従五位下 周防介に叙任される[5][1][6]。新介と称した[1]。 陶晴賢が義隆に対する謀反の計画を企図した際、最初は義隆の隠居と義尊の新当主擁立が決められていたが、この義尊の実子か否かの問題のために晴賢は計画を変更して義隆・義尊殺害に変更したとされている[4]。
天文20年(1551年)8月29日、晴賢が謀反を起こすと、父の義隆や公家衆とともに山口より脱出し、長門大寧寺へ逃れた。この時、義尊は幼少のため従者(同朋衆の龍阿)に背負われていたという[5]。しかし幼児ながらも謀反に動揺せず立派な態度を見せたと伝わる[註 1]。
天文20年(1551年)9月1日、義隆は大寧寺において自害。義尊も小幡義実に連れられて逃亡を図るが同日に捕らえられた[5]。この時、陶隆房は助命すると述べて捕虜にしたのだが[7]、翌日には約束を反故にされて義尊は殺害された[5][7](大寧寺の変)。享年7歳[8][4][9][10][11][6][註 2][註 3]。殺害された場所は、俵山温泉の現在麻羅観音がある奥とされる[12]。また翌年大内義尊の弟の大内歓寿丸も捕らえられ、同じ場所で殺されている[12]。
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