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小笠原宗康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
小笠原宗康
時代 室町時代
生誕 不明
死没 文安3年8月9日1446年[1][注釈 1]
別名 松尾五郎(通称)
官位 大膳大夫[1]左京大夫[1]
幕府 室町幕府信濃守護
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原政康[1]
兄弟 宗康光康[1]
政秀[1]、林政家(三河林氏初代)
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小笠原 宗康(おがさわら むねやす)は、室町時代守護大名信濃守護[1]小笠原氏当主。小笠原政康の長男。

嘉吉2年(1442年)に父が死去、小笠原氏惣領職をめぐって従兄(伯父の小笠原長将の子)の小笠原持長との間で争いが起きた。持長は結城合戦赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績があり、幕府の実力者・管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。

しかし、当時の現状に鑑みれば、在京期間が長く、信濃と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され、文安2年(1445年)11月、幕府問注所は宗康を信濃守護職に任命した。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。

文安3年(1446年)、宗康は弟の光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、水内郡漆田原で持長軍と戦ったが敗れ討ち死にしてしまった(漆田原の戦い)。

持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は既に光康に譲られていたため、幕府も守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた結果、持長と光康の対立は続いた。やがて光康と宗康の子孫同士も争うようになり、小笠原氏は持長系の府中小笠原家、宗康系の鈴岡小笠原家、光康系の松尾小笠原家との三家に分裂し、再統一は戦国時代初期の小笠原長棟(府中家)の登場を待つことになる。

脚注

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  1. ^ 寛政重修諸家譜』巻第195では寛正5年(1464年7月16日死去とされている。
  1. ^ a b c d e f g 今井尭 1984, p. 273.

参考文献

  • 今井尭「小笠原系図」『日本史総覧』3(中世 2)、新人物往来社、1984年。NCID BN00172373
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