尼港事件
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尼港事件(にこうじけん、露: Николаевский инцидент Nikoláyevskiy Intsidyént, 英: Nikolayevsk Massacre[1][2][3])は、ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にある日本人統治状態にあったニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件[4]。尼港虐殺事件[5]やニコラエフスク事件ともいう。
尼港事件 | |
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戦争:ロシア内戦(対ソ干渉戦争) | |
年月日:1920年3月-5月 | |
場所:ニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ) | |
結果:赤軍がニコラエフスクを占領し破壊。責任者は後日裁判により処刑。 | |
交戦勢力 | |
白軍 大日本帝国 |
赤軍 中華民国 |
指導者・指揮官 | |
石川正雅 | ヤーコフ・トリャピーツィン 陣世栄 |
戦力 | |
白軍約300名 日本軍350~400名 |
4300名 |
損害 | |
約6000名死亡、うち日本人は少なくとも731名 | 50名死亡 |
首謀者は赤軍司令官の一人であるヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリピャーツィンである。港が冬期に氷結して交通が遮断され、孤立した状況のニコラエフスクを、パルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名[6]、朝鮮人1,000名[6][7]、中国人300名[6])(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400 - 500名、中国人900名[8])が占領し、停戦協定を無視して白軍を武装解除、白系ロシア人とみなしたニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行った[9]。それとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求した。これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍艦隊(1929年の中ソ紛争で壊滅)と共同で殲滅すると[6][10]、老若男女の別なく、最終的に日本統治状態であった尼港の総人口の半分である6,000名超えが殺された[11]。赤軍パルチザンによる日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊への虐殺は、国際的批判を浴びた[12]。日本人犠牲者は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた[13]。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。小樽市の手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑[14]、また天草市五和町手野、水戸市堀原、札幌護国神社にも殉難碑がある[15]。