崇光天皇
日本の北朝第3代天皇 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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崇光天皇(すこうてんのう[1]、1334年5月25日〈建武元年4月22日〉 - 1398年1月31日〈応永5年1月13日〉[2])は、日本の北朝第3代天皇[注 2](在位:1348年11月18日〈貞和4年10月27日〉 - 1351年11月26日〈観応2年11月7日〉)[4]。諱は益仁(ますひと)、後に興仁(おきひと)。
概要 崇光天皇, 北朝第3代天皇 ...
崇光天皇 | |
---|---|
『歴代尊影』 | |
即位礼 | 1350年2月3日(貞和5年12月26日) |
元号 |
貞和 観応 |
時代 | 室町時代・南北朝時代 |
征夷大将軍 | 足利尊氏 |
先代 | 光明天皇 |
次代 | 後光厳天皇[注 1] |
誕生 | 1334年5月25日(建武元年4月22日) |
崩御 | 1398年1月31日(応永5年1月13日) |
陵所 | 大光明寺陵 |
追号 |
崇光院 (崇光天皇) |
諱 |
益仁 興仁 |
別称 |
勝円心(法名) 伏見殿 |
父親 | 光厳天皇 |
母親 | 正親町三条秀子 |
子女 |
伏見宮栄仁親王 興信法親王 瑞室 弘助法親王 |
皇居 |
押小路烏丸殿 土御門東洞院殿 持明院殿 |
親署 | |
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光厳天皇の第一皇子。母は正親町三条公秀の女の正親町三条秀子。
光明天皇の譲位を受けて践祚。在位中には観応の擾乱が激化し、南朝と足利尊氏の和平である正平一統が成立すると、後村上天皇によって廃位された。さらに、正平一統が破綻すると、光厳上皇・光明上皇・直仁親王とともに、南朝によって拉致された。帰京後、急遽践祚した弟の後光厳天皇との皇位継承争いにも敗れ、光厳法皇から継承した伏見荘に逼塞した。
崇光天皇の子孫は伏見宮と称され、称光天皇崩御の際に伏見宮の血筋である後花園天皇が践祚した。後花園天皇の子孫は現在の皇室であり、その弟である伏見宮貞常親王の子孫は伏見宮を代々継承、明治以降は伏見宮が11の宮家に枝分かれした。そのため崇光天皇は「現在の皇室」と「旧皇族11宮家」の男系での共通祖先の天皇にあたる(なお、男系での最近共通祖先は孫にあたる伏見宮貞成親王であり、女系を含めた場合での最近共通祖先は江戸時代の霊元天皇である)。