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迷いの世界を超え、真理を体得すること ウィキペディアから
悟り(さとり、梵: bodhi)は、迷いの世界を超え、真理を体得すること[1]。覚、悟、覚悟、証、証得、証悟、菩提などともいう[1][注釈 1]。仏教において悟りは、涅槃や解脱とも同義とされる[1]。
この記事は言葉を濁した曖昧な記述になっています。 |
日常用語としては、理解すること、知ること、気づくこと、感づくことなどを意味する[2]。
インドの仏教では、彼岸行とされる波羅蜜の用法を含めれば、類語を集約しても20種類以上の「さとり」に相当する語が駆使された[3][要検証]。
悟った人を「仏」と呼ぶ場合がある。「仏」は本来「佛」と書くけれども、「弗」という字には否定の意味があり、人間でありながら、人間にあらざる者になるという意味があるとされる。水の例でいうと、水は沸点に達すると、水蒸気になるが、水蒸気というのはもとは水だけれど、水にあらざるものになる、というところが、人と仏との関係に似ているとされている[14]。また、宇宙には、物質の宇宙と意識の宇宙があるとする説がある[注釈 3]。
釈迦(しゃか)は、29歳で出家する前にすでに阿羅漢果を得ていたとされ[16][要ページ番号]、ピッパラ樹(菩提樹)の下で降魔成道を果たして悟りを開き[17][注釈 4]、梵天勧請を受けて鹿野苑(ろくやおん)で初転法輪を巡らしたとする[19]。
釈迦は悟りを開いた当初、自身の境涯は他人には理解できないと考え、自分でその境地を味わうのみに留めようとしたが、梵天勧請を受けて教えを説くようになったと伝えられることから(聖求経)、ブッダの説法の根本は、その悟りの体験を言語化して伝え、人々をその境地に導くことが、後代に至るまで仏教の根本目的であるとされることがある[1]。一方、藤本晃によれば、南伝仏教であるテーラワーダ仏教では、釈尊は悟りを四沙門果と呼ぶ四段階で語っていたが、釈迦以外の凡夫は悟りを開くことはできないとパーリ語仏典や漢訳阿含経典に書いてあるとする[20]。
釈迦は説法の中で自身の過去世を語り、様々な過去の輪廻の遍歴を披露している。
ジャイナ教では、修行によって業の束縛が滅せられ、微細な物質が霊魂から払い落とされることを「止滅」(ニルジャラー)と称する。その止滅の結果、罪悪や汚れを滅し去って完全な悟りの智慧を得た人は、「完全者」(ケーヴァリン)となり、「生をも望ます、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地に到達する。この境地に達すると、生死を超越し、また現世をも来世をも超越する。煩悩を離れて生きることを欲しない、と同時に死をも欲しないのは、死を願うこともまた一つの執着とみるからである。ここに到達した者は、まったく愛欲を去り、苦しみを離脱して迫害に会ったとしても少しも動揺することなく、一切の苦痛を堪え忍ぶ。この境地をモークシャ・やすらぎ(寂静)・ニルヴァーナ(涅槃)、とジャイナ教では称する。
モークシャに到達したならば、ただ死を待つのみである。身体の壊滅とともに最期の完全な解脱に到達する。完全な解脱によって向かう場所を、特に空間的に限定して、この世とは異なったところであるとしている。「賢者はモークシャ(複数)なるものを順次に体得して、豊かで、智慧がある。彼は無比なるすべてを知って[身体と精神の]二種の[障礙を]克服して、順次に思索して業を超越する『アーラヤンガ』」。モークシャは生前において、この世において得られるものと考えられている。このモークシャをウッタマーンタ(最高の真理)と呼んで、ただ“否定的”にのみ表現ができるとしている。
このモークシャを得るために、徹底した苦行、瞑想、不殺生(アヒンサー)、無所有の修行を行う。ジャイナ教では、次の「七つの真実」(タットヴァ)を、正しく知り(正知)それを信頼し(正見)実践する(正行)することが真理に至る道であると考えられている。
ジャイナ教では、宇宙は多くの要素から構成され、それらを大別して霊魂(ジーヴァ)と非霊魂(アジーヴァ)の二種とする。霊魂は多数存在する。非霊魂は、運動の条件(ダルマ)と静止の条件(アダルマ)と虚空(アーカーシャ)と物質(プドガラ)の四つであり、霊魂と合わせて数える時は「五つの実在体」(アスティカーヤ)と称する。これらはみな“実体”であり、点(パエーサ)の集まりであると考えられている。宇宙は永遠の昔からこれらの実在体によって構成されているとして、宇宙を創造し支配している主宰神のようなものは“存在しない”とする。
霊魂(ジーヴァ)とは、インド哲学でいう我(アートマン)と同じであり、個々の物質の内部に想定される生命力を実体的に考えたものであるが、唯一の常住して遍在する我(ブラフマン)を“認めず”、多数の実体的な個我のみを認める「多我説」に立っていると見なされている。霊魂は、地・水・火・風・動物・植物の六種に存在し、“元素”にまで霊魂の存在を認める。霊魂は“上昇性”を持つが、それに対して物質は“下降性”を有する。その下降性の故に霊魂を身体の内にとどめ、上昇性を発揮することができないようにしていると考えられている。この世では人間は迷いに支配されて行動している。人間が活動(身・口・意)をするとその行為のために微細な物質(ボッガラ)が霊魂を取り巻いて付着する。これを「流入」(アースラヴァ)と称する。霊魂に付着した物質はそのままでは業ではないが、さらにそれが霊魂に浸透した時、その物質が「業」となる。そのため「業物質」とも呼ばれる。霊魂が業(カルマン)の作用によって曇り、迷いにさらされることを「束縛」(バンダ)という。そして「業の身体」(カンマ・サリーラガ)という特別の身体を形成して、霊魂の本性をくらまし束縛しているとする。霊魂はこのように物質と結び付き、そして業に縛られて輪廻すると伝えられている。
霊魂に業が浸透し付着して、人間が苦しみに悩まされる根源は外界の対象に執着してはならないとの教えで、あらゆるところから業の流れ(ソータ)は侵入してくるので、五つの感覚器官(感官)を制御して全ての感覚が快くとも悪しくとも愛着や執着を起こさなければ、業はせき止められる。それを、「防ぎ守ること・制御」(サンヴァラ)と呼び、新規に流入する業物質の防止とする。それに対し、既に霊魂の中に蓄積された業物質を、苦行などによって霊魂から払い落とすことを「止滅」(ニルジャラー)と呼ぶ。
霊魂は業に縛られて、過去から未来へ生存を変えながら流転する存在の輪すなわち輪廻(サンサーラ)の中にいる。輪廻は、迷い迷って生存を繰り返すことだと云われる。ジャイナ教は、その原因となる業物質を、制御(サンヴァラ)と止滅(ニルジャラー)によって消滅させるために、人は“修行”すべきであると説く。そのために出家して、「五つの大誓戒」(マハーヴラタ、mahaavrata)である、不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有を守りながら、苦行を実践する。身体の壊滅によって完全な解脱が完成すると「業の身体」を捨てて、自身の固有の浮力によって一サマヤ(短い時間)の間に上昇し、まっすぐにイーシーパッバーラーという天界の上に存在する完成者(シッダ)たちの住処に達し、霊魂は過去の完成者たちの仲間に入るとしている[21]。
ヒンドゥー教は非常に雑多な宗教であるが、そこにはヴェーダの時代から続く悟りの探求の長い歴史がある。
仏教に対峙するヴェーダの宗教系で使われる悟りは意識の状態で、人が到達することの出来る最高の状態とされる。サンスクリットのニルヴァーナ(涅槃)に相当する。光明または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。
インドではヴェーダの時代から、「悟りを得るための科学」というものが求められた。それらは特に哲学的な表現でウパニシャッドなどに記述されている。古代の時代の悟りを得た存在は特にリシと呼ばれている。
ニルヴァーナには3つの段階が存在するといわれ、マハパリ・ニルヴァーナが最高のものとされる。悟りと呼ぶ場合はこのどれも指すようである。どの段階のニルヴァーナに到達しても、その意識状態は失われることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナは肉体を持ったまま得るのは難しいとされ、悟りを得た存在が肉体を離れる場合にマハパリ・ニルヴァーナに入ると言われる。
悟りを得た存在が肉体を離れるときには、「死んだ」とは言われず、「肉体を離れる」、「入滅する」、「涅槃に入る」などと言われる。
悟りという場合、ニルヴァーナの世界をかいま見る神秘体験を指す場合がある。この場合はニルヴァーナには含まれないとされ、偽のニルヴァーナと呼ばれる。偽のニルヴァーナであっても、人生が変わる体験となるので、偽のニルヴァーナを含めて、ニルヴァーナには4つあるとする場合もある。
現在でも、ゴータマ・ブッダの時代と同じように山野で修行を行う行者が多い。どんな時代にでも多くの場所に沢山の数の悟りを得た(と自称している)存在に事欠かない。
通常、悟りを得たとする存在もヒンドゥー教、またはその前段階のバラモン教の伝統の内にとどまっていた。しかし、特にゴータマ・ブッダの時代はバラモン教が司祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存在と主張した時で、それに反対してバラモン教の範囲から飛び出している。同時代にはジャイナ教のマハーヴィーラも悟りを得た存在としており、やはり階級制であるカーストに反対してこれを認めず、バラモン教から独立している。
仏教者鈴木大拙はイエスを妙好人と考証している[22]。 また、イエスは、古今東西の覚者と同じく、悟りの体験をしていたという見解がある。[23]
イエスの認識を全く理解できなかった弟子が、イエスに叱責されるというエピソードが福音書には載っている。その時に、イエスは、あなたがたは今なお、「悟り」がないのか、という語を用いてそのことを指摘したとされている。キリスト教と悟りとの関連が見られる箇所の一つがそこにあると見ることができる[24]。
十字架にかかる以前のナザレのイエスの教えには、心の中の悪に対しての認識を深めることが弟子たちに対しての要求に含まれていた。人の心の中から出てくる行為や想念については、淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、奸計、好色、よこしまな眼、涜言、高慢、無分別などがあげられている[25][注釈 5]。
これらの箇所に見えることは、人が、自分の心の中の悪を自覚できるようになることは一種の悟りである、という「自力救済的な教え」を、時にイエスは説いていたということである[注釈 6]。しかし、ナザレのイエスは悟っていたかもしれないということを裏付けできるような資料はほとんどなく、わずかに『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に仏教的な悟達者との関連があるかもしれないという記述が残っているのみである。
福音書と同じくイエスの言行を記した『闘技者トマスの書』には、自力救済的な思想が記されている。「自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。」[28]という言葉などにも、人が、心の中の悪を突き詰めていった「悟り」というものにつながっている部分があるようにも見える。『闘技者トマスの書』は、自力救済的な思想でありながらも、同じナグ・ハマディ文書のトマス福音書とは異なり、異端であるとはされなかった。
「人間を救済する自己認識」の信念は異色のものであると言える。こうした自力救済的な思想は、正統的教会にとっては異端として退けられるべきものであると考えられる。しかし、岩波書店『ナグ・ハマディ文書 III 』によれば、「闘技者トマスの書」は、正統的教会の、いわば外延をなした修道者に向けて編まれたものと思われるとされていて、その主な内容であるところの、欲望に対する闘争は、キリスト教的な禁欲思想をつらぬくものとされている[29]。
(77)、すべては私から出て、 そしてすべては私に達した。木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。
(4)、・・・日を重ねた老人は生命の場所について7日の幼な子に問うことを躊躇してはならない。 そうすれば彼は生きるであろう。
(5)、あなたの面前にあるものを認識せよ。そうすれば、隠されているものはあなたに明かされるであろう。 明らかにならないまま隠されているものはないからである。
(15)、もしあなたが女から産まれなかった者を見たら、ひれ伏しなさい。彼を拝みなさい。その者こそ、あなた方の父である[35]。[36]
一般のイスラム教には悟りの伝統は含まれていないが、特にイスラム教神秘主義とも呼ばれるスーフィーは、内なる神との合一を目的としており、そのプロセスは悟りのプロセスのいずれかに近い。しかし、神との合一を成し遂げたスーフィの中にはハッラージュのように「我は真理なり」と宣言して時の為政者に処刑された例がある[37]。
イスラーム世界において異端とされてきたスーフィーの一派の中には、人間の自我意識の払拭を修行の目的としている一派があるとされている。彼らは、人間には「我」というものがあるから、苦しみや悪があると捉え、修行者は、自我意識を内的に超克したところに、神の顔を見ることが出来るとされる。スーフィーにおいて、神は、自分自身の魂の奥底に存在するだけでなく、すべての場所に遍在しているとされる。また、神は、あらゆる物事の内面に存在している内在神であるともされている。 そして、修行者においては、自己否定の無の底に、「遍在する人格的な神」の実在性の顕現が為されるとされる。[38]
ムスハフ解釈本を研究する者は、大体三つの時期に全体を大別するのが常である[40]。 ムハンマドに表立って反対する者が出てくる前、最初の啓示から四年ほどの間に下されたアッラーによる初期の啓示に顕された姿は、ユダヤ教(なかでもモーセの教え)やキリスト教(なかでもナザレのイエスの教え)で説かれている神の姿とたいへんよく似通っているとされる[41] [42]。
アラブの伝承では、人はめいめいに自身の精霊(ジン)を持っているとされ、砂漠の民は、神、あらゆる精霊、あらゆる超自然の力に畏怖の念を抱いているとされる[43]。当時、ムハンマドの住んでいた地域のキリスト教は、異端とされるものであったとされ、閑静な場所で、瞑想生活を送るタイプの異端であったとされる。ムハンマドは、啓示を受け始める以前、ヒラー山の洞窟に、定期的に数か月単位で瞑想生活を送っていたとされる。それは、ムハンマドの祖父が、キリスト教徒に関心を持ち、異端とされる宗派の信仰生活に影響を受けてのものであったようだ。祖父の代より行われていた、一家の宗教行事ともいえる瞑想生活を契機として、ムハンマドに神の啓示が下される事態となったわけである。しかしそのとき、ムハンマドが悟っていたかどうかについては、定かではない。
啓示を受け始めた当初、神はムハンマドに対して「あなたは神の預言者である」という言葉を繰り返していたとされている。彼が瞑想のために山に登るたび、その声が彼をつつみ、彼の自覚を促していたという[44]。その神が、ユダヤ教やキリスト教の神と同じであると直感したのは、彼を取り巻く人たちであった。
ヒラー山にて、内的啓示を受けたとき、ムハンマドは、それがアラブに昔から言い伝えられるジンと呼ばれる霊的存在であると思った。妻は、妻のいとこに相談をした。「かつてモーセを訪れた偉大な神が到来したのだ」と、いとこは、ムハンマドに語ったと言われます[45]。その後、ムハンマドが「ヒラー山」に登るたびに「ムハンマドよ、あなたは神の使徒である」という、神の、啓示があったとされる。ムハンマドには、その神が、「モーセを訪れた偉大な神」であるかどうかは判らなかった。けれども、神によって、モーセに連なる預言者の一人としての自覚を促されている、という認識はあったようだ[注釈 11]。
ムハンマドの啓示も、当初はイエス(宗教者)と同じ、一なる神の理を説くものであり、平和を目指すものであったとされる。しかし、平和のために剣を取ることによって生じた甚だしい自己矛盾が、神の理とその啓示から、ムハンマド(宗教者)を遠ざけてしまった、という見解がある[46]。そのような観点からすると、ムハンマドの意識は、最初期に限定してみた場合、「神の理」を悟る心境にあったとみることができる。また、信者においては、こうした瞑想生活と神の理に対する理解と洞察から、後年のスーフィズムが生じてきたとみることができる。
「道」は、この現象界を超えたところで、現象界を生起させ変化させる一者として考えられている。この「道」は言葉によって客観的に捉えることができないとされている。そのため、荘子において、道を体得した人とは、すべてのものが、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている[47]ことを感得した人であるとされている。また、「道」は、無限なる者[48]として、天地のまだ存在しない大古から、すでに存在しているものであり、これを感得する者を、真人や聖人と呼んでいる。また、道を体得した者は、霊妙な力を持つ天帝や鬼神の存在についても知ることになる、とされている。(斉物論篇 九)。「道」は、すべての現象をそうあらしめている原理としての性格と、宇宙生成論的な発生の根源者という性格の二面が融合していることが知られている[49]。このことは、宇宙の真理を説いたとされる初期仏教における悟りと何らかの関係にあると見ることができる。[注釈 12]
道は万物が皆よって生ずる根本的な一者であるとしている。道は無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている[50]。
自然の道から見れば、分散することは集成であり、集成することは、そのまま分散破壊することに他ならない。道を体得するとは、すべてを通じて一であることを知るということである。すべてのものは、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている、とされる(斉物論篇)[47]。
老子においては、実在としての道は、循環運動を永遠に続けているとされている[51]。あらゆる存在は、「有」として、「無」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。
「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。
「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである[52][注釈 13]。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。
荘子において、道を体得した人とは、すべてのものが、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている[47]ことを感得した人であるとされている。
道は、万物が皆よって生ずる根本的な一者であり、無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている[50]。
聖人における「聖」という概念には、倒置の状態(自己を外物のうちに見失い、自らの本性を世俗の内に喪失した状態)から完全に脱することができた真人という意味合いがある。聖人の境地とは、およそ無心のままに静けさを保ち、欲望に動かされずに安らかであり、静まりかえって作為から離れていることとされる。それは、天地の安定した姿のうちにあり、自然のままの道徳の極致を体現した聖なる存在であるとされる。(天道篇 二)[注釈 14]。
自得とは、最初の段階では、自分自身の在り方に満足することであり、与えられた運命のままに生きるという随順の立場と変わりがないといえる。しかし、これは、自分の「外なる物」という自分の本性でないものと自分の内にある本性とを弁別して、自らの本性を選択し続ける、という段階につながっている。その外物とは、仁義であり、世間的な名声であり、欲望をさそう財貨であり、五味、五色、五声である。これらの外物を遠ざけ、退けるところにはじめて自然の性が保たれるのである、とされる[53]。
道の徳を身に得た者は、徳を傷つける知識を得ようとはしない。だから、「ただ自己のあり方を正すことがすべてである」。このような自己本来の立場にあって、完全な楽しみを得ること、これを「わが志を得る」という、とされている(繕性篇)。
天地の徳を明白に知る者は、いっさいの根源を宗とする者であるといえる。それは天との和合をもたらすものであり、また、天下万物に調和を与え、人との和合をもたらすものである(大宗師篇)、とされている。また、道とは徳の根源である。生とは徳が発する光に他ならない、ともされている(庚桑楚篇)[54]。
荘子の思想の中には、「道」と「無為」とを同一視してしまう場合がある。また、「無為」と、「自然の為すところ」とが同一視されている場合もある。至人の境地に至るためには、これらを念頭に生きることが不可欠な道標であるとされる場合もある。この場合の至人は、物との調和を保ち、その心が無限の広さを感得することをもって善しとする(大宗師篇)。こうした思想は、後代になって、解脱を目的とする禅宗の成立に大きな影響を与えたとされる[55]。仏教における禅宗は、仏教伝統を受けつぎながらも荘子を頂点とする中国思想と深く交流することによって、はじめて成立したものであるとする見解がある。それによると、禅宗における悟りと関連した概念(「不立文字」「見性仏性」等)と、荘子における無為自然との合一という概念とには、相通じるものがあるとされている[56][注釈 15]。
「その光を和らげ、その塵を同じくす。是を玄同という」(第56章)という言葉がある。玄を道と解釈した場合、老子においても道との合一を果たす生き方は、一つの悟りであり、「道の徳」や「道の援助」のうちに生きる生き方であると見ることができる。
道は全体に対して、弱い力として働いており、沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。(42章)
古代ギリシアにおいては、「知識」・「認識」はグノーシスと呼ばれていた[57]。古代思想としてのグノーシスは、「神の認識の仕方」の一種であるとされる[58]。宗教用語として見た場合、グノーシスという言葉は、広義な意味を有している。古代ギリシアにおいて、ソフィアとグノーシスを分けて考えることは難しい状況にある。そのため、客観的認識作用や、主観的認識作用とその結果を、グノーシスと呼ぶことが可能である。「悟り」についても、広義の意味におけるグノーシスの一部に属していると見ることができる[注釈 16]。また、古代ギリシアより遅れて生じ、グノーシスを壊滅させたキリスト教においては、すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする教義によって、国民を統制する立場であった。歴史的に見て、絶対的一神教は、悟りと関わりのある宗派・宗教を異端として弾圧してきた。こうした、絶対的一神教(三位一体神等)による神の認識の仕方は、悟りとは逆の思想であるといえる。
グノーシスは、古代ギリシア語で「知識」・「認識」を意味している[57]ギリシア哲学では知のことをソフィアとしているが、ソクラテスやプラトンも、神や、神の世界や魂を信じていた。宗教と哲学を分かつことは難しい。言い換えると、古代において、ソフィアとグノーシスを分けて考えることは難しい。古代のグノーシスは、悟りのようなものであると見ることができる[注釈 17]。そうしたグノーシス主義には、神の存在を認めない哲学的思想を批判している文書もある。また、スピノザの説いた一元的汎神論は、グノーシス主義に似通っているが、絶対的一神教が支配的な社会であったためか、無神論の一種として扱われた。
古代ギリシアでは、あの世の神的次元にいるとされる神々が、賢者に啓示を下すと考えられていた。プラトンは、ソクラテスの言葉として、神々に対する不敬を行った者などは、あの世にて重い罰を与えられるエルの物語を記した。これは、神話ではなく、ソクラテスの受けた啓示を物語として記したものであるといえる[注釈 18]。
グノーシスとは、「現れえないものどもを、現れているもののうちに見出すことから、はじまる」という言葉がある[59]。広義な意味において、グノーシスとは、「神は、宇宙を含むすべての存在についての真理を認識できるようにしている」、という信念に基づく類の宗教思想を全体的に言い表す言葉であるといえる。該当する宗教の中に、神話論的、実践的、直感的な真理としての「神の認識の仕方を有する宗教思想」があった場合、その宗教は、グノーシスとしての面を持っていると解釈することができるようだ。
ヴェーダにおける神の認識の伝承は、バラモン教やヒンドゥー教にも影響している[注釈 19]。
ゴータマ・ブッダは、仏教というものを説いたことがなく、あらゆる宗教に通じた万古不滅の法を説いたとされる。その中には、ウパニシャッドの哲学等においける、悟達の境地に到達した古仙人たちのことが語られている[注釈 20]ので、古代の聖人たちと関係のあるバラモン教の宗派の悟りと古代文明のグノーシスとには、密接な関係があると見ることができる。
ゴータマ・ブッダは、自然の背後に神の存在を認めていた。また、神はあるということは、智者によって一方的に(直感的に)認識されるべきであるとしていた[61]。宇宙の真理としてのバフラマーは、啓示を「この世の主であるバフラマー神」によって、修行完成者としてのブッダに下したとされる。また、万古不滅の法[62]として、諸仏の教えがあるとしている。また、ブッダは、諸仏を尊敬し信じる心のある者は、それだけで、天に生まれるとしている[63][注釈 21]。
初期の仏教においては、相手に応じて法を説いた。学問のある知識階級に対しては、哲学的な用語を用いて語ったときもあれば、知識階級でも実践的真理の欠けているものには、哲学とは無意味であるとする回答をしているときもある。あるいは、論理的な説明がかえって害となる場合には、黙して返事をしない場合もあった。
中期プラトン主義はグノーシス主義に影響を与えたとされている。また、旧約聖書も影響しているとされている。全能者は、この世界を覆っていて、悪(貧しさや高慢)であるとする思想は、キリスト教グノーシス主義のみではなく、非キリスト教グノーシス主義にも、よくある要素であるとする見解がある[64]。こうした二元論的なグノーシス主義は、直感的な悟りの体験における喜悦や神の愛を、知によって不平や不満に変質させる、という特質を持っている。
ナグ・ハマディ文書の中に、『エウグノストス』という写本がある。この書は、宇宙開闢の神について語られている。次の、宇宙の真理を説く天啓に満ちた人が来るまでの神の認識の書であるとされている。端的に見るならば、宇宙開闢の神が、天啓を賢者に下した、と見ることができる[注釈 22][注釈 23]。
ここでのイエスの思想は、至高神の本質(霊魂)が、宇宙や世界を貫いて人間の中にも宿されているとする。しかし人間は自らの本質である本来的な自分について無知の状態に置かれていて、本当の自分と身体的な自分とを取り違えている。人間は救済者に学ぶことにより、人間の本質と至高神とが同一の存在であることを体得し、認識したときに、神との合一による救済にいたれるとするものであるとされている[65]。
トマス福音書の中には、イエスの直伝にまで遡る可能性が想定されている句が二つあるとされる(77の後半、98など)[66][注釈 24]。イエス(宗教者)の直伝の経文がほとんど無いのは、単純に言うと、直伝の経文が破棄されたり、別の思想者によって編集・改ざんされたためである。
77の後半:「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。」・・・この句は、神の遍在思想と関係があるとされる[67]。イエスは一なる神を信じていた。
98:イエスが言った、「父の王国は、高官を殺そうとする人のようなものである。彼は自分の家で刀を抜き、自分の腕が強いかどうかを知るために、それを壁に突き刺した。それから、彼は高官を殺した。」・・・この句は自己吟味の勧めであるとされ、ルカ14:31-32に類似しているとされている[68]。ルカ14:33では、自らの財産のすべてを断念しない者は、誰一人私の弟子になることはできない、とされている。父の王国は、自らの財産のすべてを断念しないと入ることができない、と考えると理解しやすいといえる。 荒野の試みのところでは、悪魔がこの世を支配していることが述べられている。この句に言われている「高官」とは、この世の君(高官)を指し、その支配から脱却することを、彼は高官を殺した、と譬えたことがうかがえる。高官殺人をたとえに用いたのは、弟子の中に刀を持っていた者がいたためであると、考えられる(ヨハネ18の10)。また、民衆の多くは、救世主が、ユダヤの政治的な解放者であると考えていたとされており、政権の転覆には、高官暗殺が必要と考えていた弟子がいたのではないかと思われる。
「エリアはすでに来た」という句では、ヨハネの前世がエリアであったことが表明されている。エリアの転生輪廻は、天から生まれたことになり、トマス福音書の天から人は生まれてくるという記述とつながっている。
四福音書におけるイエスの思想は四つほどである。他は、福音記者による物語か、講釈である。四福音書のイエスの言行には「人間を育む慈悲の神」は出てきているが、「唯一の神」は出てきていない。唯の字をはぶいた「一なる神」という概念を、ユダヤ教の聖書を引用するときに使ったとされている[69]。宗教者としてのイエスの考察にとって重要と思われる『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に出てくる神は、この、「一なる神」や、あるいは、ブッダの説いた「人格的な面を持つダルマ(神)」に近いようだ。全宇宙の神として観た場合、「一なる神」は、ブッダが説いた「人格的な面を持つ神(ダルマ)」というものに似ているといえる[70] [注釈 25]。
広義には、地域を問わず、シャーマンが関わる宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼んでいる。その中にあって、自然界における神的存在やあの世の神的存在がシャーマンに神事を告げてきた時には、啓示宗教としての形態を持つことになる。そのため、各文明におけるシャーマンの思想が、万古不滅の法にかなったものである場合には、そのシャーマン自身の悟りに結びついているといえる。
キリスト教は、すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする立場であるので、悟りとはほど遠い思想である[注釈 26]。
367年にアタナシウスはエジプトにある諸教会に宛てて、現行新約のみを聖典として、その他の外典を排除するようにとの書簡を出している。このことと、ナグ・ハマディ写本が地下に埋められたこととは関係があると推察されている[71]。
「在りてある者」としての神は、モーセに、十戒等の啓示を下したとされる。在りてある者としての神は、人格的な面を持つ実在のことであると言い換えることができる。旧約聖書における神観念は、初期には拝一神教であった[72]。拝一神教とは、他との調和をはかるという特質がある[注釈 27]。神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀のバビロニア捕囚前後からとされるので、モーセの時代には、多神教徒とは争わないで調和して生きよ、という神の啓示があったと見ることができる。
タナハにおいて、拝一神教に該当する部分については、啓示宗教であるといえる。また、タナハにおいて、絶対的一神教としての神の啓示の部分は、神話と編集作業から生まれたものとされている[注釈 28]。
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