故国川王
高句麗の王 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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故国川王(ここくせんおう、生年不詳 - 197年5月)は高句麗の第9代の王(在位:179年 - 197年5月)。姓は高、諱は男武。国壌王とも表記され、『三国遺事』王暦では諱を男虎とする。先代の新大王の第2子であり、提那部の于素の娘を王妃とした。179年に新大王が死去したときに、長男の抜奇が政権内や人民の評判が悪かったため、男武が擁立されて王位に就いた。
『三国史記』高句麗本紀・故国川王紀には、故国川王の即位後に漢の建安年間(196年-220年)の初めに、抜奇が王位につけなかったことを不服として消奴部の加(高句麗の官名のひとつ、首長層)と3万余人を率いて公孫氏[1]の元に降り、さらに後に抜奇は帰国して沸流水(渾江)の辺に住んだ、とする。同書・山上王紀では、故国川王の死後にその兄の発岐・弟の延優が王位を争い、敗れた発岐が公孫度を頼り反乱したとの記述がある。抜奇と男武(故国川王)との争いは、故国川王の死後の発岐と延優(山上王)との争いが故国川王即位紀に紛れ込んだと見られている。