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日本の編集者、評論家、作家。 ウィキペディアから
鹿児島県鹿児島市に生まれる[3]。早稲田大学を中退し、編集者となったのち、自ら執筆をはじめる[3]。
鱒書房の編集長を務めたことがある[4]。春陽堂書店の編集長を務めた際には事件が起きたことが知られている。1957年に春陽堂書店から刊行された藤原審爾著『みんなが知っている』は副題に「百万支那派遣軍による中国婦女子の受難」と題されていた[5]。この書籍に対し護国青年隊員から抗議を受け、編集長の末永は印刷中の2万冊の表紙と帯の作り直し、増刷の見送りと絶版を約束させられた[5]。
末永は大宅壮一の愛弟子として知られている[6]。大宅に師事し、大宅を中心とするノンフィクションクラブ所属の作家となった[7]。梶山季之のような作風で性風俗関係を専門とした[8]。末永はヤクルト本社会長南喜一のゴーストライターとして執筆活動をし、月刊誌『宝石』に南喜一の名前で連載された猥談を書籍化した南喜一著『ガマの聖談 人生に関する珍考漫考』(カッパ・ブックス)が1968年に刊行された[3]。この書籍はベストセラーとなった[9]。南が死去した3年後、末永は自身の名前で『新ガマの聖談 男性の欲望を開放するバイブル』(サン・ブックス、1973年)を刊行した[注釈 1]。
大宅壮一文庫の前身・大宅資料室では大宅の執筆活動のため毎週水曜日に大宅、末永、楢崎勤、蒲生欣一郎、読売新聞の林泉が資料室の膨大な資料を調査し討議した[6]。メモが山積みになり過ぎて中止に至るほどであった[6]。末永は池島信平らとともに奔走し、大宅壮一文庫の財団化に貢献した[2]。
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