本田親雄
ウィキペディア フリーな encyclopedia
ジャーナリストの「本田親男」とは別人です。 |
本田 親雄(ほんだ ちかお、文政12年9月6日(1829年10月3日)[注釈 1] - 明治42年(1909年)3月1日[2])は、幕末から明治時代にかけての武士、官僚。薩摩藩士。正二位勲一等男爵。
本田弥右衛門の長男として生まれる。京都留守居役兼横目をつとめ、1862年(文久2年)の寺田屋騒動のときには負傷者を救護した。戊辰戦争では海・陸軍参謀。維新前国事に尽力し、のち元老院大書記官、元老院議官を歴任する。
1887年(明治20年)5月24日に後勲功により男爵[3]、従二位勲一等を賜る。1890年(明治23年)7月10日、貴族院男爵議員となり[2]、1907年(明治40年)10月11日に辞職[4]。錦鶏間祗候等を経て、1907年9月21日に枢密顧問官になり[5]、1909年(明治42年)まで顧問官であった。1909年3月1日に危篤となった際、正二位に叙し勲一等旭日大綬章を授与されたが、その日のうちに薨去した。81歳。通称は弥右衛門。墓所は青山霊園(1イ1-4)にある。
- 位階
- 勲章等
[脚注の使い方]
注釈
出典
- 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』83頁。
- 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
- 『官報』第7289号、明治40年10月14日。
- 『官報』第7272号、明治40年9月23日。
- 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- 『官報』第3396号「叙任及辞令」1894年10月22日。
- 『官報』第6703号「叙任及辞令」1905年10月31日。
- 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
- 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- 『平成新修旧華族家系大成』下巻、508頁。
- 島村久(読み)しまむら ひさしコトバンク