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1523?-1596?, 中国・明の医師、本草学者 ウィキペディアから
李 時珍(り じちん、1518年7月3日(正徳13年5月26日) - 1593年(万暦21年))は、中国大陸明の医師・本草学者。字は「東璧」、号は「瀕湖山人」。中国本草学の集大成とも呼ぶべき『本草綱目』や、奇経や脈診の解説書である『瀕湖脈学』・『奇経八脈考』を著した。
黄州府蘄州(現在の湖北省黄岡市蘄春県蘄州鎮)[1]で、代々医師を務める家に生まれた李時珍は、幼い頃から、父の李言聞(字は子郁、号は月池)の助手をしながら育った。
父は『医学八脈考』・『人参伝』と言った医学書を執筆するほどの名医であったが、当時の医師の社会的身分の低さから、息子には医業を継がせずに、科挙に合格して官僚になる事を望んでいた。しかし、子供の頃から病弱だった李時珍は医学への思いを絶ちがたく、23歳の時に父に懇願して、医学を学ぶ事を認めてもらった。
彼の医学の才能はたちまちに開花し、数年後には名医として湖北一帯に名を知られ、明の皇族である楚王までが彼を頼るようになった。そして、李時珍34歳の時に、明朝における医学の最高機関であった「太医院」に推薦を受けて、北京に赴いた。しかし、彼には中央の役人として勤めることは性に合っていなかったらしく、1年後には帰郷し、再び地元で医業を始める事となった。
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