東武バス
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東武バス(とうぶバス)は、東武グループが運営するバス。以下の定義がある。
- かつて東武鉄道バス事業本部が運行していたバスの通称。
- 東武バス株式会社 - 上記同社からの分社により設立。下記の運行担当子会社3社の統括会社。
- 東武バスセントラル株式会社
- 東武バスウエスト株式会社
- 東武バス日光株式会社
- 上記の運行担当3社が運行するバスの総称。
- 東武バスグループ - 東武バス株式会社および運行担当3社の総称。
本社(東武館) | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 |
日本 〒131-8522 東京都墨田区押上二丁目18番12号 東武鉄道本社内 |
設立 | 2002年(平成14年)1月30日 |
業種 | 陸運業 |
法人番号 | 9010601028389 |
事業内容 | 運行会社に係る事務の代行、動産および不動産の賃貸借等 |
代表者 | 代表取締役社長 柏倉 則行(2019年6月21日就任) |
資本金 | 25億7,635万円 |
売上高 |
24億4522万2000円 (2021年3月期)[1] |
営業利益 |
1億5487万8000円 (2021年3月期)[1] |
経常利益 |
1億6178万7000円 (2021年3月期)[1] |
純利益 |
1億9261万4000円 (2023年3月期)[2] |
純資産 |
86億8351万8000円 (2021年3月期)[1] |
総資産 |
97億0676万4000円 (2023年3月期)[2] |
主要株主 | 東武鉄道 |
関係する人物 | 根津嘉澄 |
外部リンク | https://www.tobu-bus.com/ |
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本項では東武バス株式会社を中心に、これらを総括して詳述する。
東武バス株式会社(とうぶバス、英称:TOBU BUS CO., LTD.)は、東京都北東部、埼玉県南部および西部、千葉県北西部、そして栃木県日光地区に路線を有する東武グループのバス事業者である。
かつて「東武バス」は東武鉄道バス事業本部が運営するバス事業を指す呼称であったが、2002年4月にバス事業本部が分社化され、東武バス株式会社が設立された。東武バス株式会社は統括会社(中間持株会社)として管理業務のみを行い、バスの運行は同社の地域子会社として設立された東武バスセントラル、東武バスウエスト、東武バス日光の3社が担当する。これらの運行会社を合わせた3社で東武バスグループを形成する。
東武バスの生い立ち
東武バスの歴史は、昭和初期に東武鉄道が2本建ての経営形態によりバス事業を開始したことに始まる。その一つは、1933年10月17日に傍系会社として毛武自動車を設立し東武本社内で創立総会を開催し、群馬県内や太田 - 熊谷間などでのバス事業を同年10月27日に開始した[4]。もう一つは、翌1934年4月1日に東武鉄道本体が埼玉県川越地区において直営の路線バス事業を開始したものである。以後、おおむね東武本線沿線は毛武自動車、東武東上線沿線は直営によってバス路線の拡張が進められることとなるが、関東地方では他の大手私鉄と比べるとバス事業開始の時期が遅かったため、既に沿線には多数の中小バス事業者が乱立しており、事業の拡張は主にそれらの買収・合併により進められた。
毛武自動車は当初、本社を東武本社内、営業所を群馬県太田市にを置き、太田や桐生、埼玉県の熊谷周辺に路線を有していたが、創業から1年が経った1934年には早くも両毛回進社、東毛自動車、毛武遊覧自動車の3社を合併し、事業規模を拡大した。さらに周辺事業者の買収を行い、1935年6月1日には群馬県北部における営業を本格化するため前橋営業所を設置。翌1936年に騎西自動車、野州自動車等を買収し、加須(埼玉県)や栃木、渋川(群馬県)に営業所を新設した(前橋は渋川の出張所となる)。これらの買収により事業区域が毛武地方外にも拡大したことから、1936年9月に社名を東武自動車と改めた[4]。
東武自動車は1937年、奥日光自動車、赤城山自動車、坂東自動車を合併し、利根地方に路線を拡大するとともに沼田営業所を設置した。また同年には、桐生市内線等を運営する桐生市街自動車も合併し、両毛地方の桐生、伊勢崎、館林にも営業所を開設した。
一方、川越地区において開業した東武鉄道の直営バスも、その後徐々に周辺事業者の買収を繰り返し、成増や埼玉県の越生、松山、草加周辺等へと路線網を拡大していた。1939年に東武鉄道の直営バス事業を東武自動車が引き継ぐことでバス事業の一元化が図られることとなり、旧:東武直営バスの車庫は川越営業所、草加営業所となった。さらに同年、傍系会社の京水モーターバス、埼玉自動車、英自動車の3社を合併、それぞれの事業を南千住、熊谷、下館の各営業所を設置して継承した。
戦時統合
日中戦争以降の戦争拡大に伴う物資不足によりバス事業の継続が困難となる中で、鉄道省は交通統制の必要から陸上交通事業調整法を施行し、1941年より地域ごとにバス事業者の統合を命じていった。これに従い、東武自動車は埼玉・群馬・茨城・栃木各県における統合主体となって多数の事業者を買収。さらに太平洋戦争下の1943年に傍系の茨城急行自動車(現存する同名の茨城急行自動車とは異なる)、群馬自動車、上武自動車の3社を合併し、境、中之条、本庄に営業所または出張所を置いて事業を継承した。また1944年には、東武鉄道が総武鉄道(東武野田線の前身)を合併したことにより引き継いだバス事業を東武自動車が譲受し、大宮、野田両営業所を設置した。
都内においては、常磐線東南部の路線が京成電鉄に併合されることになったため、南千住営業所の路線のうち、千住大橋 - 堀切間を同社に譲渡した。さらに1942年に南千住営業所に対して疎開命令が下ったため、これを西新井に移転して西新井営業所とした。また1945年には花畑乗合自動車を合併し、草加 - 北千住間などの路線を継承している。
戦後の発展
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第二次世界大戦後の1947年には、東武鉄道が東武自動車および日光軌道を再度合併し、以後2002年に分社化されるまでの東武鉄道のバス事業の基礎が確立された。その後も千葉、埼玉、群馬で路線の拡大を図っていく。また他の事業者の買収やグループ化なども行っており、1958年には阪東自動車を傘下に入れている。
路線撤退と移管
しかし1970年代に入ると、群馬県を始めとする北関東地域での急速なモータリゼーションとそれによる道路渋滞の発生、鉄道網の発達による利便性の向上、山間部における過疎化など、日本全国の各地で見られた問題が影響し、徐々に東武鉄道のバス事業は縮小していくこととなった。
1980年代には輸送人員が1970年前後の約2割程度まで激減(8割減)した結果、特に関東地方北部の栃木県・群馬県および埼玉県北部において、路線の廃止や東武グループの貸切バス事業者への移管が進められていくようになった。この地域は東武鉄道による独占営業地帯であったことと、他に例を見ない急速な路線撤退であったため、その過程において1986年には館林市が全国初の「バスの走らない市」にまで至る事態につながった。
地域分社化
しかしこの急速な路線撤退にもかかわらず、東武鉄道のバス事業は赤字へと転落することとなった。このため1990年以降は、さらなる路線の縮小や東武グループ以外の事業者への移管を推し進めた。2000年以降には従来東京のベッドタウンとして団地線を中心に収益を生み出していた埼玉県南部の地域の路線も移管されはじめた。そうした厳しい状況下で、東武鉄道は経営改善を目指すために社内分社など様々な方策を検討することとなった。
その結果、東武鉄道本体の労働コストのままバス事業を続けていくことは困難であるとして、2001年9月にバス事業の分社化を決定した。バス事業を資産管理会社東武バス、運行会社をエリアごとに東武バスイースト、東武バスセントラル、東武バスウエスト、東武バス日光の4社に地域分社化し、2002年1月30日に各子会社を設立して移管が実施された。だが移管後もつくばエクスプレスの開業などにより大きな影響を受けることとなった。
2020年以降は新型コロナウイルス感染症による乗客減に見舞われ、税負担が軽減される1億円への減資を2021年6月22日の株主総会で決めた(実施は同年9月1日予定)[5]。翌年にも首都圏における緊急事態宣言の発出による外出自粛や企業のリモートワーク推進により乗客減が続く中で[3]、将来的な少子高齢化も見据えたバス事業の安定的継続と収益力強化を図るためとして[3]、東武バスは2021年7月1日付のニュースリリースで、運行エリアの近い東武バスセントラルと東武バスイーストの統合を発表[3][6]。東武バスセントラルを存続会社として東武バスイーストを吸収合併した[3]。これにより東武バスイーストの営業所は東武バスセントラルの営業所となり[3]、東武バスイースト株式会社は消滅した。