永雄策郎
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永雄 策郎(ながお さくろう、1884年(明治17年)1月28日 - 1960年(昭和35年)2月10日)は、日本の経済学者。東亜経済調査局主事、拓殖大学教授、近畿大学教授、富士短期大学大世学院教授。専門は植民政策学。東京帝国大学経済学博士。
人物情報 | |
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生誕 |
1884年1月28日 京都府竹野郡下宇川村 |
死没 |
(1960-02-10) 1960年2月10日(76歳没) 東京都世田谷区北沢 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
学問 | |
研究分野 | 植民政策学 |
研究機関 | 東亜経済調査局、拓殖大学、近畿大学、富士短期大学 |
学位 | 経済学博士 |
主要な作品 | 『植民地鐵道の世界經濟的及世界政策的研究』(1930年) |
影響を受けた人物 | 新渡戸稲造、岡田虎二郎 |
影響を与えた人物 | 大川周明、村尾次郎 |
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主に大正期から戦後復興期にかけて活動を展開した。京都府竹野郡の名士の家に生まれ、第五高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業。出版社への短期間の勤務を挟み、大学時代の縁で満鉄の東亜経済調査局に入ると、後に主事となりこれを運営する側に立った。この際、高校時代から関わりのあった大川周明を採用させたことが、結果として歴史的に重要な意義を持つ。
それからは審査役の身分で大連の満鉄本社へ渡り、当地の教育機関において植民政策の講師を務める。こうして教育の道を歩み始め、数年後に「植民地鐵道の世界經濟的及世界政策的研究乃至植民地鐡道の外的研究」を発表して東京帝国大学より経済学博士の学位を取得。専門分野と縁深い拓殖大学の教授へと転身を果たし、学問として発達段階にあった植民政策学の隆興に関わった。
東京帝国大学経済学部の内紛により、植民政策の講座を担当していた矢内原忠雄が辞職した際は、この後を襲って母校の教壇に立った。しかし、立て続けに起きた平賀粛学では河合栄治郎を擁護する側に立ったため、1年あまりで講師の職を辞すこととなる。間もなく第二次世界大戦に突入すると、自らの信念に立って大東亜共栄圏の構想を推し進めた。
戦後は永雄の活動がGHQから問題視され、早々に公職追放の対象となる。これを受けて大学を辞職し、5年近くにわたって不遇をかこったが、それでも意欲を失うことはなく、多くの時間が生まれたことを利用してフィヒテの著作である『ドイツ国民に告ぐ』の訳注作業を始めた。そしてこれを法政大学出版局、次いで講談社から刊行し、10年がかりで研究の成果を生み出した。富士短期大学にて教授へ就任し、追放が解除されると、立正大学の講師や近畿大学の教授に招かれた。
個人的な信条としては、戦後社会が日本国憲法の下にあることに対する憂国の至情が募り、日本憲法確立同盟を結成。保守派の論客としての活動を始め、紀元節の復活などを主張した。だが、その思いが達成されることはないまま、数年後に76年の生涯を閉じた。