筒井順尊
ウィキペディアから
ウィキペディアから
当時の大和は畠山義就と畠山政長が対立した影響で国人も2派に分かれて抗争していた。筒井氏は政長派に属し、応仁の乱では順尊は父・順永と共に義就派の越智家栄、古市澄胤と大和で戦った。
しかし、文明8年(1476年)に父が死去、翌年9月に畠山義就が河内国に下向して政長派を撃滅・制圧すると越智家栄らも勢いづいて順尊・箸尾為国らを大和から追放、河内と大和は義就の手に入った(正式な守護は政長と興福寺だが、義就が実力で取得した)。結果、順尊ら政長派は流浪の身となった。後に十市遠清・遠相父子も大和から脱出した。
その後は大和で度々ゲリラを仕掛けるがその度に敗北、復帰を果たせぬまま長享3年(1489年)7月22日、京都で死去。享年39。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.