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結城弥平次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
結城弥平次
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文13年(1544年[1]
死没 不明
別名 是後
霊名 ジョルジュ
主君 小西行長加藤清正有馬晴信直純
肥後熊本藩肥前日野江藩
氏族 結城氏
洗礼名:マルタ(河内岡山城主・結城丹後守の娘)
洗礼名:モニカ
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結城 弥平次(ゆうき やへいじ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリシタン武士小西行長の家臣。肥後国愛藤寺城代。

生涯

河内国出身。叔父に結城忠正がいる。叔父の影響でキリシタンに改宗した後は、京都南蛮寺建設にも関わった。

天正16年(1588年に小西行長が肥後宇土城へ入城した時、禄3,500石を得て家老となり、益城郡矢部の愛藤寺城代を太田市兵衛と共に務めた。与力として、土橋掃部・島澤市右衛門・平地源右衛門・中小路三右衛門・後藤三五兵衛門・田邊平右衛門・加賀山次郎作・岡兵右衛門・横田勘左衛門・天木庄太夫・小野田弥右衛門・吉田木工右衛門・速水七左衛門(300石)の13人が付属された[2]。愛藤寺城代となると同時にキリスト教に入信。城内に設けた邸宅に伝道所を設け、布教に努めた。信者数は最終的に4,000人に達し宣教師も招かれたという。

文禄2年(1593年)5月の使来日の際には世話役を任される。また、行長の信頼が厚かったため、文禄・慶長の役の際はその留守を預かって肥後南部の統治に当たった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は加藤清正に仕えるが、棄教を拒否したため家中より追放される。その後は有馬晴信に知行3,000石で召し抱えられ、金山城(結城城)主となるが、晴信死後の慶長18年(1613年)、転宗を拒否したために主君・有馬直純によって封禄没収・国外追放を命じられた。

長崎へ追放された後の消息は不明だが、寛永5年(1628年)に末次平蔵の台湾派遣船に浜田弥兵衛と共に乗船していたという説もある[1]

脚注

  1. ^ a b 人物紹介|小西行長の部屋”. 宇土市. 2015年10月31日閲覧。
  2. ^ 土橋掃部が500石、島澤以下12人は300石。

参考文献

  • 海老沢有道『キリシタンの弾圧と抵抗』雄山閣、1981年。
  • 島津亮二『小西行長ー「抹殺」されたキリシタン大名の実像ー』八木書店、2010年。
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