緑屋
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緑屋(みどりや)は、日本にかつて存在した月賦制の小売店で、1969年(昭和44年)1月期までの十数年間は業界最大手であった[9]。 会社・法人格としては、1980年(昭和55年)8月1日に「志澤」を吸収合併して「西武クレジット」へ商号を変更し[10]、1989年(平成元年)10月1日に株式会社クレディセゾンへと商号を変更して[11]存続している。
1946年(昭和21年)9月12日に[12]岡本虎二郎が東京都世田谷区太子堂に和洋家具専門店の「岡本商店」として[2]店員3名で面積約9坪の店を開いたのが始まりである[13]。 この創業時点では繊維製品が統制されていたことから家具を主力としたもので、当初は現金販売のみで営業していた[14]。
1947年(昭和22年)11月に「有限会社 大丸」を設立して法人化し[2][15]、1949年(昭和24年)に繊維品の統制が解除となったことから[14]、同年10月に第2次世界大戦後の東京では初めて月賦販売を開始した[13]。 1950年(昭和25年)から繊維品の取り扱いを本格化し[14]、同年10月に「有限会社 緑屋」へ商号を変更して[2][15]月賦販売を本格化した[13]。
1951年(昭和26年)4月に当社初の支店として横須賀市追浜本町に横須賀店を開店した[2]。 同年5月1日に資本金99万円で「株式会社緑屋」を設立した[2]。
1957年(昭和32年)に三軒茶屋に鉄筋コンクリート造地下1階・地上5階建てでエレベーターや冷暖房完備した店舗を開設し、大型店としての月賦百貨店の第1号となった[16]。
1958年(昭和33年)に仕入れ部門を「緑屋商事」として分離独立させたほか、共同購入代金の借入・貸付を行う「緑屋信用販売協同組合」や照明・電気工事の「緑屋電業社」を設立した[17]。
1960年(昭和35年)には「クレジットの丸井」に対して「ホームビル[注 1]の緑屋」というキャッチフレーズを掲げてチェーン展開をし[19]、業界に先駆けて店舗展開を進めた[20]。
1963年(昭和38年)1月にコンピューターを導入して商品管理を中心とした電子化を開始し[21]、同年2月1日に「吉祥寺緑屋」・「溝口緑屋」・「横浜緑屋」・「宇都宮緑屋」・「平塚緑屋」・「常盤台緑屋」・「千住緑屋」を吸収合併し[22]、同年7月2日に東京証券取引所第2部に上場した[4]。 1967年(昭和42年)2月に「千葉緑屋」・「調布緑屋」を吸収合併し、1968年(昭和43年)6月に第1部に昇格した[23]。
1969年(昭和44年)8月1日に「丸紅」と商品開発や設備リース・店舗開発費の貸し付けなどの提供を受ける業務提携を締結した[24]。
丸井、丸興、ライフアップ大丸(大丸百貨店[注 2])と共に四大月賦百貨店の一つに数えられ、東証2部に上場した当時は売上高約127億円を上げて2位に約50億円の差をつける圧倒的な首位となっていた[25]。
最終的に500店舗の展開を目指して上場前後から出店を加速し[17]、1965年(昭和40年)の31店舗から1970年(昭和45年)1月末時点には45店舗まで店舗を増やした[26][27]。
しかし、早くから出店を進めたことが裏目に出てその後の繁華街の移動や店舗の大型化の影響を受け[20]、「小売業は立地産業だ」との青井忠治の考えから駅前立地で出店して「駅のソバ」をキャチコピーとして業績を伸ばしたライバルの丸井との出店戦略の違いが業績を伸び悩ませることに繋がった[28]。
同じ1965年(昭和40年)から1970年(昭和45年)1月の間に24店舗から30店舗まで6店舗の増加に留めたものの[26][27]、スクラップアンドビルドで店舗の大型化などを進めて[26]売り場面積を約2.3倍に拡大した丸井との戦略の差が出て[27][29]、その間に売り場面積を約1.3倍にしか伸ばせなかった当社は会社全体の売り場面積で逆転されることになった[27][29]。
商品政策面でも、ファッション関連中心の品揃えとして購買力の高い若者層を取り込んだのに対して、当社は従来通りの月賦百貨店の営業形態を続けたことも、業績格差に繋がってしまった[28]。
その他、月賦は低所得者層が利用するというイメージの悪さを打ち消すために1964年(昭和39年)から「クレジット」というキャッチフレーズへの置き換えを進めた丸井との広報戦略の違いも業績の伸び悩みに繋がっていった[29]。
その結果、1970年(昭和45年)1月期に丸井に月賦百貨店首位を奪われて業界2位へ転落することになった[30]。
また、ボウリング場・中華料理店・喫茶店・住宅産業などへの多角化を図ったものの、その投資負担や業績の伸び悩みが当社全体の伸び悩みに繋がり、月賦販売の本業に徹した丸井との差が広がる要因となってしまった[31]。
その為、借入金が約300億円に達し、売上や利益で上回る丸井の約200億円を大きく上回るところまで、財務が悪化することになった[32]。
その為、1971年(昭和46年)11月に丸紅が発行済み株式数4400万株のうち600万株を取得して筆頭株主となり、仕入れや新店舗の建設・集金・配送システムなどに共同で取り組む、資本・業務提携を行った[33]。 それに伴って、丸紅から尾松千秋が代表取締役として送り込まれ、創業社長岡本虎二郎の長男の岡本典雄は常務取締役を退任して当社から離れることになった[32]。
1972年(昭和47年)10月に「ミドリヤクレジットカード」として[34]独自のクレジットカードの発行を開始した[35]。
しかし、丸紅に小売業のノウハウがなかったこともあって[36]、その後も商品企画力や営業力の面で丸井に大きな差がついたままとなった業績は回復しなかった[37]。
また、業績の伸び悩みで株価が低迷したことから、当社は1970年(昭和45年)8月の増資以降は株式市場で資金調達が出来なかったのに対し、ライバルの丸井は同じ1970年(昭和45年)の他に1972年(昭和47年)と2回の時価発行増資を行って資金調達を行っており、財務面でも差を付けられることになった[27]。
その他にも、クレジットの回収率でも当社は1974年(昭和49年)1月期で前年度より約0.5%改善しても約98.5%に留まり、丸井より1%以上未回収率が高い状態が続くなど、顧客の信用管理面でも同社に対して劣っていた[26]。
こうして再建が進まなかったことから丸紅は仲介者を介し西武流通グループに提携を打診した[38]。 これを受けて、1975年(昭和50年)1月に西武グループ(後のセゾングループ)が100万株を取得し、1976年(昭和51年)3月に300万株を岡本一族と丸紅から追加で取得した[36]。 同年4月に坂倉芳明西武百貨店社長が当社社長を兼務して再建に取り組み始め[39]、山形店や高崎店などの大型店から家具などの大型商品を無くしてファッション専門店への切り替えを進めた[37]。 また、当時約70%を占めていた割賦販売依存から脱却を目指し、現金での販売を強化することで経営再建を目指した[37]。
1976年(昭和51年)9月に「ミドリヤクレジットグリーンカード」の発行を開始し[34]、横須賀店で地元商店街とのクレジットカードの共同利用を開始した[40]。
1977年(昭和52年)1月に西友と共同で大森の工場跡地と凍結していた旭川市での出店を再開することや[41]、不採算店6店舗の閉鎖・約400名の西武グループへの出向・閉鎖店舗跡地など遊休資産の売却などを行う再建計画を発表した[42]。
しかし、当初は出向計画と遊休資産の売却が遅れたことから、1978年(昭和53年)1月期に約16億円の経常赤字に転落した[42]。
1978年(昭和53年)4月1日に資本金9000万円で「緑屋計算センター」を設立してコンピューター管理部門を独立させ[43]。 同年5月にキャッシングサービスを開始して、消費者金融事業に参入した[44]、同年5月にキャッシングサービス業務を開始した[45]。
1980年(昭和55年)8月1日に「志澤」を吸収合併して「西武クレジット」へ商号を変更し[10]、同日に当時 西武流通グループの本社が集まっていたサンシャイン60に本社を移転した[46]。 同年6月に東北地区6店舗、同年11月に関東地区14店舗にPOSシステムを導入して、全店舗への同システムの導入を完了した[47]。
1981年(昭和56年)3月に子会社であった「緑屋計算センター」は西武情報センター(現:セゾン情報システムズ)に吸収合併された[48][49]。
1982年(昭和57年)4月15日に[50][51]西武流通グループのカード機能を統合して[52]「西武カード(SEIBU・CARD)」の発行を開始した[50][51]。
1983年(昭和58年)3月15日に「セゾンカード(SAISON・CARD)」の発行を開始した[53]。
1985年(昭和60年)3月に「ウォーク」を設立して当社と西友や西武百貨店の運営していたファッション専門店ビルの運営を一本化した[54]。
1985年(昭和60年)に債権管理システム「SOCS」を整備し、1986年(昭和61年)に多目的総合情報管理システム「SCREEN」を開発した[52]。
1989年(平成元年)10月1日に株式会社クレディセゾンへと商号を変更した[11]。
1994年(平成6年)4月に総合割賦斡旋業者登録を行い、セゾンカードの発行主体を当社にほぼ一本化した[55]。
1996年(平成8年)に新カード発行システム「SCANERS」と新債権管理回収システム「SUCCESS」の運用を開始した[52]。
商号の由来
「風雪にめげず木々が緑を増すように、人々に生気と希望を与えよう」という願いを込め、商号を草木の萌え出ずる色である「緑屋」とした[56]。
ロゴ
緑屋の看板は深緑色に白抜きで、大きな○の中に「緑」の文字、その下にカタカナで「ミドリヤ」と書かれたデザインだった。[要出典] 1979年(昭和54年)にロゴの変更が行われ、草刈順がデザインしたものになった(社名表記はローマン体に「MIDORIYA」)。[要出典]ローマン体のアルファベットの「M」に鳥がたたずむ様子は、同じく草刈がデザインした阪神百貨店のロゴ(同じくローマン体の「H」の中に「S」が入り、左にはクローバーが添えられているもの。表記も「HANSHIN」)に酷似していたが、翌年の西武クレジットへの改称によりわずか1年でロゴは変更された。[独自研究?]
「ams」店舗は、緑屋の名残の深緑色に白抜きのアルファベットで「ams」とだけ表示されていた。[要出典]同じようにams西武も、深緑色の白抜き(もしくは逆)に西武百貨店のロゴデザイン同様に四角いの線の中に「ams」「西武」とだけ表示されていた。[独自研究?] ちなみに、ams西武のロゴのデザインは、田中一光である[57]。