織田信雄
日本の安土桃山~江戸時代の武将、大名 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
親愛なるWikiwand AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:
トップの事実と統計を挙げていただけますか 織田信雄?
この記事を 10 歳向けに要約してください
すべての質問を表示
織田 信雄(おだ のぶかつ/のぶお[下記参照])は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大和宇陀松山藩初代藩主。織田信長の次男。伊勢北畠家の養嗣子となって北畠氏を称し、元服して具豊(ともとよ)を名乗ったのが初名で、第10代当主として信意(のぶおき[4]/のぶもと[5])、次いで信勝(のぶかつ)とも名乗り、信雄は最後の改名による。のちに織田氏に復し、晩年は入道して、法名は常真といった。通称は三介[注釈 8](北畠三介)、北畠中将、尾張内府(尾張内大臣)[4]など、伊勢国司を継いだため御本所とも敬称された[注釈 9]。
概要 凡例織田信雄 / 北畠信意, 時代 ...
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 永禄元年(1558年) |
死没 | 寛永7年4月30日(1630年6月10日) |
改名 | 茶筅丸(幼名)、北畠具豊→信意→信勝→信雄→織田信雄、常真(号) |
別名 | 信具[注釈 2]、通称:三介/北畠三介、北畠中将、尾張内府、御本所(尊称) |
戒名 | 徳源院殿実巌常真大居士 |
墓所 |
大徳寺総見院(京都府京都市北区紫野) 崇福寺(群馬県甘楽郡甘楽町小幡) 室生寺(奈良県宇陀市室生) |
官位 | 従五位下侍従、正五位下左近衛権中将、従四位下、正三位権中納言、従二位、正二位、内大臣 |
主君 | 織田信長、信忠、秀信→豊臣秀吉、秀頼→浪人→秀頼→徳川家康、秀忠 |
藩 | 大和国宇陀松山藩主 |
氏族 | 織田氏→北畠家→織田氏 |
父母 |
父:織田信長、母:生駒殿 養父:北畠具教または北畠具房(下記参照) |
兄弟 | 信忠、信雄、神戸信孝、徳姫、羽柴秀勝、津田勝長、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次、信正[注釈 3]他 |
妻 |
正室:千代御前(雪姫)(北畠具教の娘) 継室:木造具政の娘 側室:津田長利の娘、久保三右衛門の娘、小玉氏など |
子 | 秀雄、加爾[注釈 4]、高雄[注釈 5]、小姫(豊臣秀吉養女、徳川秀忠正室)、信良、高長、信為、良雄、長雄[注釈 6]、女(佐々一義室)、玉雄院(土方雄氏室)、女(生駒政勝[1][注釈 7]室)、女(生駒直勝室) |
特記 事項 | 秀雄、信良が父に先立って亡くなった後、孫の信昌が(信良次男)継ぎ、高長が後見となった。しかしのちに幕府は高長流を本家と裁定した。 |
テンプレートを表示 |
閉じる