西遼
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西遼(せいりょう、拼音: Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。
中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている[1]。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」[1]「強力な契丹」[2]の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない[3]。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている[4]。
西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」[5]、「ハンの中のハン」[6][7]、「大いなるハン」[2]、「勇敢なハン」[8]などの意味)の称号を名乗り[2][5][9]、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ[1]。
首都はクズオルド[10](虎思斡耳朶、quz ordu /غزباليغ Ghuzz-Balïγ グズオルド[11]、フスオルド[1]。契丹語で「堅固なオルド」の意[9]。