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おほむたから

日本の作曲家山田一雄の管弦楽曲 ウィキペディアから

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『おほむたから』は、山田一雄(和男)が1944年に作曲した管弦楽曲[1]。作品20[2]。演奏時間20分[2]

作曲の背景

東京音楽学校クラウス・プリングスハイムに師事した山田和男は、『若者のうたへる歌』などの管弦楽作品を作曲していた[3]。しかし1941年に新交響楽団(現・NHK交響楽団)の補助指揮者に就任してからは、作曲よりも指揮活動に軸足が移っていた[3]。同年開戦した太平洋戦争の時期は、情報局からオーケストラの演奏曲目に必ず日本人の作品を加えるように指示が出されており[4]、新交響楽団は日本交響楽団と改称し、その演奏曲目には常に日本人作品が取り上げられていた[5]。そうした時期に『おほむたから』は朝日新聞社の委嘱により作曲されたもので[1]、完成は1944年2月5日[2]。自筆スコアの最終ページには、「昭和十九年二月五日 東京、阿佐ヶ谷ニテ。敵クウェゼリン嶋上陸の報道をきゝ乍ら。」と書かれている[2]。なお完成2日前の2月3日には、NHKラジオ放送で橋本國彦作曲『新生比島国民に贈る歌』、伊福部昭作曲『フィリッピン国民に贈る管弦楽序曲』などを山田が指揮していた[6]。またこの年7月に山田は召集されるが、情報局から「東京で仕事をさせるべき重要な人物」と指令が出て、1か月で復員している[3]

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曲名

自筆スコアの冒頭には、『おほむたから』(大みたから)と書かれている[7]。この「おほむたから」とは、作曲者によると、「古事記に出てくる言葉で、わたしはこの曲の中に、古き時代から続いてきた日本の壮大な歴史と伝説、そして美しい国土を愛する気持ちを注ぎ込んだ」としている[8]。「おほむたから」の意味は、「(天皇の)大きな御宝」、つまり天皇の臣民を表わす[2]。『日本書紀』では庶人、公民、人民といった言葉に「おほむたから」とルビを振った例がみられ[9]、また作曲当時の文献にも、「民」という字[10]、あるいは「公民」という熟語[11]に「おほむたから」とルビを振ったものがある。

構成と内容

曲の構成は作曲者により3部に定義されている[12]。山田は、曲想の中には、天台宗の「声明」も採り入れた、としている[8]

「敬虔に」と記された第1部は、冒頭から第90小節まで。雅楽風の打楽器をともなう声明風のファンファーレで始まる。行進曲風の音楽は次第に葬送行進曲風となり、明らかにグスタフ・マーラー作曲『交響曲第5番』第1楽章を下敷きにしている[13][2]。長調の「結句」も第1楽章トリオに相当する[13]

第2部は「激しく、心をこめて」と記され、第91小節から第271小節まで。マーラー『第5番』第1楽章と第2楽章を発展させたもの[13]

Tempo Iと記された第3部 は、第271小節から最後第335小節まで。第1部の再現であるが、葬送行進曲風部分と結句が解体され断片化し、声明風の冒頭動機が繰り返されながら終わる[13]

編成

フルート3(3番はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、コーラングレ[注釈 1]クラリネット3、ファゴット2、コントラファゴットホルン4、トランペット4、トロンボーン3、テューバティンパニ小太鼓大太鼓シンバル銅鑼トライアングル、弦楽5部[2]

初演と再演

この作品は1945年1月1日、NHKにて、作曲者指揮、日本交響楽団により放送初演された[2]

その後、1945年1月24日、日比谷公会堂にて、作曲者指揮、日本交響楽団により舞台初演された[2]。これは同交響楽団第262回定期演奏会であり、同一プログラムが1月25日、26日にも演奏された[5]。プログラムの他の曲目は、バッハ作曲『ブランデンブルク協奏曲第5番』と、マーラー作曲『交響曲第4番』であった[5]

作曲者が存命中にこの作品がプロオーケストラの定期演奏会で演奏された記録は見当たらない[14][15][16]。作曲者は1991年に没し、2001年4月28日にアマチュアオーケストラ新交響楽団が、「山田一雄没後10年」と銘打った演奏会でこの曲を取り上げた。会場は東京芸術劇場大ホール、指揮は飯守泰次郎で、プログラムのもう1曲はマーラー『第5番』であった。

楽譜

演奏譜は東京音楽大学付属図書館ニッポニカ・アーカイヴに寄託されている[17]

録音

評価

2001年の再演に際し作曲家の小鍛冶邦隆は、「ある意味ではマーラー『第5』のパロディともいえる音楽」としながらも、1932年にプリングスハイム指揮の『第5』日本初演を聞いた山田が打ちのめされたことから[20]、「音楽家自身の内面の屈曲と、時局のもたらす状況は、『おほむたから』をしてOpus in tempore belli(戦時の音楽)という特異性を与えている」とした[13]

再演を指揮した飯守泰次郎は、演奏会プログラム掲載のインタビュー記事で「『おほむたから』では、たとえば『交響的木曽』のような日本のメロディを生かした楽しい感じの作品とは明らかに違う色彩をもたせようとしたことが感じられる」とし、地味な日本のメロディは天皇の慈悲の心だとはどうしても思えない、またマーラーの絶望の深さについて山田は全く触れていない、と疑問を呈し、「この曲が書かれた時の彼の神秘的な精神状況や、それからののっぴきならない政治的社会的状況等が、まだ解明できない」としている[21]

音楽評論家の片山杜秀は、「大日本帝国に最期のときが迫っていた時期、山田和男はマーラーの『交響曲第5番』第1楽章と仏教声明を、マーラーと声明の旋律の相似性を意識しつつ合体させ、おほむたから即ち日本国民と銘打った交響的作品を発表した」[22]と解釈し、「曲の含みはもはや明らかである。それは、『一億玉砕』を決意する悲壮な歌声か、あるいはすでに玉砕してしまった近未来の『おほむたから』のための幻想の葬礼である。マーラーを知り、声明と葬儀を結びつけられる聴き手は、そのように音楽を理解するだろう」としている[23]。そして「もちろんそんなことを表だって曲名に示せば1945年1月には初演できない」[22]と指摘し、当時の音楽状況を示唆している。実際に1945年1月1日にこの曲は新年の祝賀曲としてラジオ初演されたが、情報局に問題視されることはなかった[23]。これについて当時の状況に詳しい文芸評論家中島健蔵は、1956年9月の座談会で「音楽畑以外の人間として言わなければならないが、当時は非常にうらやましかった。かってな題をつけて、山田和男の“オオムタカラ”といえば、それで通ったろう」とし、文学では絶対そうはいかなかった、と語っている[24]

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脚注

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