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アカデミア・デル・チメント

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アカデミア・デル・チメントAccademia del Cimento、実験のアカデミー)は、17世紀イタリアに作られた、科学の分野の先駆的な「学会」である。

概要

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Saggi di naturali esperienze...の表紙
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Saggi di naturali esperienze...の図版

メディチ家はその財力によって学者を保護し、ガリレオの弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリの活動も援助した。トリチェリは1647年に没するが、1657年、ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニらによって、メディチ家トスカーナ大公フェルディナンド・デ・メディチレオポルド・デ・メディチによって[1]アカデミア・デル・チメントがフィレンツェに設立された。ジョヴァンニ・ボレリニコラウス・ステノもメンバーであった。

その活動は、科学の初期におけるさまざまな実験、推測の回避、実験道具の製作、測定基準の統一などを行った。また、世界初の気象観測網を構築して、フィレンツェ、ピサ、バッロンブローザ、カルティリアーノ、ボローニャ、パルマ、ミラノの7地点で、温度、気圧、湿度、風、空の状態の気象観測を行った[2]。またその観測ために、温度計、湿度計、気圧計などが考案され製作された[1]

1667年にレオポルドがサン・コズマ・エ・ダミアーノ英語版枢機卿に任命される条件として、アカデミア・デル・チメントの解散が求められたため、解散した[3]。その際に提出された報告書 Saggi di naturali esperienze fatte nell' Academia del cimento は、学会でのそれまでの実験研究をまとめたもので、世界最初の学会誌として注目された[3]。これは1731年ラテン語に翻訳され、18世紀の標準的な科学の手引き書となった。

アカデミア・デル・チメントの解散後、学問の中心の地位は1660年にロンドンに設立された王立学会、1666年にパリに創立されたフランス科学アカデミーなどにをゆずっていくことになった。

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会員

正会員

  • レオポルド・デ・メディチ - トスカーナ大公の弟
  • フェルディナンド2世・デ・メディチ - トスカーナ大公
  • ジョヴァンニ・ボレリ - 物理学者、数学者、生理学者
  • フランチェスコ・レディ - 医師、自然発生説を否定する実験を実施
  • カルロ・レナルディーニ (Carlo Renaldini) -
  • ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ - 数学者、科学者、晩年のガリレオの助手として働き、ガリレオの伝記を書いた。
  • ロレンツォ・マガロッティ (Lorenzo Magalotti) - 事務局長、アカデミーの出版に関与
  • アレッサンドロ・マルシリ (Alessandro Marsili) - ピサ大学論理学教授
  • アントニオ・オリーヴァ (Antonio Oliva)

準会員

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脚注

参考文献

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