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アマトリーチェ地震 (1639年)
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アマトリーチェ地震(1639年)[1] は、1639年10月7日、当時のナポリ王国(現在のイタリア)アマトリーチェ[2] 付近のトロント川上流の渓谷において発生した地震である。
経緯

地震の揺れは15分続き、約500人が死亡した(多くの遺体は瓦礫の下に残されたままであった)。損害は当時の金額で40万~100万スクード相当と推定されている [3]。オルシーニ家の一族は地震により破壊された街から避難した[4]。
10月14日には強い余震が発生した[5]。
多くの住民は郊外に避難しそこにテントを設置したが、サン・ドメニコ教会に避難した住民もいた[1]。全壊した又は大きな被害を受けた建物には、オルシーニ家の邸宅[6](地震発生時にはオルシーニ家の一族は街を不在にしていた)、軍司令部(Palazzo del Reggimento)[訳語疑問点] 、聖十字架教会、他の住居が含まれていた[1]。住民は地震が収まるのを祈って、ロザリオの祈りを行い、行進(参考:en:Procession#Roman_Catholics)を行った[1]。この地震により、当時の主な収入源であった乳牛にも大きな被害があったため、アマトリーチェは、ローマやアスコリ・ピチェーノへの人口の流出を余儀なくされた[3]。
地震の影響は、カルロ・ティベリにより1639年に公表された報告書において詳細に記載されている。この報告書は同年のうちに改訂され第2版が公表された。
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地震
イタリアは同じヨーロッパのギリシャやトルコと同様に地震の多い国であり、古代・中世以降の地震被害の記録が数多く残されている。とくにアマトリーチェを周辺とするアペニン山脈沿いの地域ではとくに地震が多く、1703年にラクイラで地震が起きている。イタリアで地震が多いのは、端的に言えばユーラシアプレートとアフリカプレートの境界部分にあたり断層が多いためであるが、この地域は地質構造が日本以上に複雑で、単純なプレートの沈み込みなどでは説明できない。
→「イタリアの地震一覧」も参照
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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