トップQs
タイムライン
チャット
視点
アントニオ・マヌエル・ダ・フォンセカ
ウィキペディアから
Remove ads
アントニオ・マヌエル・ダ・フォンセカ(António Manuel da Fonseca、1796年9月27日 - 1890年10月4日)は、ポルトガルの画家、イラストレーター、舞台美術家である。肖像画や神話や歴史を題材にした作品を描いた。
略歴
リスボンで画家、彫刻家の息子に生まれ、はじめ美術学校の校長をしていた父親のジョアン・トマス・ダ・フォンセカ(João Tomás da Fonseca: 1754-1835)に学んだ後[1]、画家ジョアキン・マヌエル・ダ・ローシャ(Joaquim Manuel da Rocha: 1727-1786)にも学んだ[2]。1820年には、資本家のキンテラ伯爵(ジョアキン・ペドロ・キンテラ: Joaquim Pedro Quintela,1st Count of Farrobo)の注文でリオデジャネイロのラランジェイラス宮殿(Palácio das Laranjeiras)のジョアン6世と王妃カルロッタ・ジョアキナの肖像画を描いている[2]。2年後、キンテラ邸(Palácio de Quintela)に古代ローマのローマ・サビニ戦争やローマなどの風景、ギリシャ神話などを題材にした一連の壁画を描いた。
1825年に、リスボンのサン・カルルシュ国立劇場の緞帳のデザインをし[2] 、同年国王ペドロ4世の肖像画を描いた。国王とキンテラ伯爵の支援を受けてローマに留学し、ローマで巨匠たちの作品を模写し[1]、新古典主義の画家ヴィンチェンツォ・カムッチーニやアンドレア・ポッツィ(Andrea Pozzi: 1778–1833) のもとで修行した[2]。ロンドンとパリにも滞在し、1836年に帰国すると、リスボンの美術アカデミー(Academia de Belas-Artes、後にリスボン大学の一部になる。)の教授に任じられた[3]。ダ・フォンセカに学んだ学生にはミゲル・アンジェロ・ルピやフランシスコ・アウグスト・メトラスがいる。
1838年に劇作家アルメイダ・ギャレット(Almeida Garrett: 1799-1854)の劇の衣装デザインや、オペラ作曲家ジャコモ・マイアベーア(1791-1864)のオペラ「悪魔のロベール」の舞台美術を手がけた。版画家のマウリシオ・ホセ・センディム(Maurício José Sendim: 1786-1870)と、作家アントニオ・フェリシアーノ・デ・カスティーリョ(António Feliciano de Castilho)の小説の挿絵も制作した。
キリスト騎士団(Ordem Militar de Cristo)に叙せられポルトガルの勲章(Ordem Militar de Nossa Senhora da Conceição de Vila Viçosa)も受勲した[3]。
1890年にリスボンで亡くなった。
Remove ads
作品
- 建築家Giuseppe Cinatti の家族の肖像画
- ペドロ5世 (ポルトガル王)の肖像画(1860)
- 聖母のエリザベト訪問
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads