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アーチボルド・キャンベル (第9代アーガイル伯爵)

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アーチボルド・キャンベル (第9代アーガイル伯爵)
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第9代アーガイル伯爵アーチボルド・キャンベルArchibald Campbell, 9th Earl of Argyll PC FRS, 1629年 - 1685年6月30日)は、清教徒革命イングランド内戦)から王政復古期のスコットランドの貴族。第8代アーガイル伯爵(初代アーガイル侯爵)アーチボルド・キャンベルとモートン伯爵ウィリアム・ダグラス英語版の娘マーガレット・ダグラスの長男。

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第9代アーガイル伯爵アーチボルド・キャンベル

生涯

清教徒革命で父と共に王党派に属して議会派と戦い、1650年にスコットランド王に即位したチャールズ2世を擁立して第三次イングランド内戦ダンバーの戦いと翌1651年ウスターの戦いに参戦、オリバー・クロムウェル率いるイングランド共和国軍と戦った。戦後反乱策謀の容疑で1657年に投獄され1660年に解放、翌1661年に父が革命での行動を咎められ反逆罪で処刑され侯爵位を没収、それに連座して再び投獄されたが、王政復古でイングランド王・スコットランド王に即位したチャールズ2世からは1663年に改めて新設の形でアーガイル伯爵位を授与された[1][2]。同年に王立協会フェローに選ばれている[3]

しかし、チャールズ2世の弟でスコットランドに赴任したヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)から宗教問題で対立して疎まれたため1681年に死刑判決を受けオランダへ亡命、チャールズ2世の庶子のモンマス公ジェームズ・スコットと結託してチャールズ2世の死後即位したジェームズ2世に反乱を起こすため1685年5月にオランダからスコットランドへ上陸した。しかし準備不足のため戦う前から軍は分裂、6月に捕らえられエディンバラで処刑された。モンマスもイングランドに上陸したが国王軍に早期鎮圧され、7月に同じく処刑された(モンマスの反乱[1][2][4]

反乱により爵位と領土は没収されたが、1650年に結婚したマリ伯爵ジェームズ・ステュアートの娘メアリーとの間に生まれた息子のアーチボルド・キャンベルは復権に尽力、1689年ウィリアム3世から爵位と領地を返上され、1701年に公爵への昇格も果たした[2][5]

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子女

メアリーとの間に7人の子を儲けた[6]

  • メアリー(1657年7月17日[6] - ?)
  • アン(1658年頃 - 1734年9月18日) - 1678年7月1日、第4代ローダーデイル伯爵リチャード・メイトランドと結婚、子供あり。その後、第6代マリ伯爵チャールズ・ステュアートと再婚、子供なし[6]
  • アーチボルド(1658年 - 1703年9月28日) - 第10代アーガイル伯爵、初代アーガイル公爵[6]
  • ジョン英語版(1660年頃 - 1729年4月9日) - スコットランド王国議会議員、グレートブリテン庶民院議員。1692年、エリザベス・エルフィンストン(Elizabeth Elphinstone、1758年没、第8代エルフィンストン卿ジョン・エルフィンストンの娘)と結婚、子供あり。第4代アーガイル公爵ジョン・キャンベル英語版の父[7]
  • チャールズ英語版(1707年以降没) - スコットランド王国議会議員。おそらく1678年にソフィア・リンジー(Sophia Lindsay、初代バルカレス伯爵アレグザンダー・リンジーの娘)と結婚[6]
  • ジェームズ英語版(1660年頃 - 1713年1月?) - スコットランド王国議会議員、グレートブリテン庶民院議員。1690年11月10日、メアリー・ウォートン(Mary Wharton、フィリップ・ウォートンの娘)と結婚したが、同年12月20日に議会法案の可決を経て結婚を解消した。1694年、マーガレット・レズリー(Margaret Leslie、1755年4月19日没、初代ニューアーク卿デイヴィッド・レズリーの娘)と結婚、子供あり[6][8]
  • ジーン(Jean、1712年7月31日没) - 1685年6月30日、第2代ロジアン侯爵ウィリアム・カーと結婚、子供あり[9]
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出典

参考文献

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