トップQs
タイムライン
チャット
視点

アーチボルド・ケネディ (初代エイルザ侯爵)

ウィキペディアから

アーチボルド・ケネディ (初代エイルザ侯爵)
Remove ads

初代エイルザ侯爵アーチボルド・ケネディ英語: Archibald Kennedy, 1st Marquess of Ailsa KT FRS1770年2月 – 1846年9月8日)は、イギリスの貴族、政治家。1796年から1806年までスコットランド貴族代表議員を務めた[1]

Thumb
ウィリアム・オーウェン英語版による肖像画、1816年。

生涯

要約
視点

第11代カセルス伯爵アーチボルド・ケネディと2人目の妻アン(Ann、旧姓ワッツ(Watts)、1793年12月29日没、ジョン・ワッツ英語版の娘)の長男として、1770年2月に生まれた[1]

1790年に歩兵中隊を編成し、のちにウェスト・ローランド・フェンシブルス(West Lowland Fencibles)副隊長を務めた[1]

1792年に父がカセルス伯爵位を継承したとき、議会入りを望んだ[2]。このとき、カセルス伯爵家のエアシャー選挙区英語版における勢力が強かったが、1794年12月30日に父が死去してカセルス伯爵位を継承することになり、スコットランドにおける庶民院議員の被選挙権を失った[1][2]。1795年4月、父の遺産継承者として正式に認定された[1]

1796年イギリス総選挙ではウィリアム・フラートン英語版を支持してたが、フラートンはダンダス家の支持を得られず、対立候補のヒュー・モンゴメリー英語版が勢力の強いエグリントン伯爵家出身だったこともあり、フラートンは26票対30票で落選した[2]。同年にヒューがエグリントン伯爵位を継承すると、フラートンは補欠選挙に出馬して、カセルス伯爵の支持を得て無投票で当選した[2]。1797年にはカセルス伯爵がグレートブリテン貴族への叙爵を目指して、フラートンへの支持をやめると噂されたが、伯爵はこれを否定、フラートンは1802年イギリス総選挙で再選した[2]

1803年2月に同族のトマス・ケネディ(Thomas Kennedy)の出馬を模索したが、初代メルヴィル子爵ヘンリー・ダンダス英語版に支持を拒否され、ケネディの立候補を断念している[2]。1796年から1806年までスコットランド貴族代表議員を務めた後、1806年11月12日に連合王国貴族であるエアシャーにおけるエイルザのエイルザ男爵に叙された[1][3]。以降もエアシャー選挙区におけるエグリントン伯爵への敵対を続け、1819年12月にエグリントン伯爵が死去するとエアシャー統監への任命を期待したが、結局任命されなかった[2]

1819年2月18日、王立協会フェローに選出された[4]

1821年戴冠式記念叙勲英語版において、1821年7月17日にシッスル勲章を授与された[5]

貴族院では1820年にジョージ4世キャロライン・オブ・ブランズウィックへの痛みと罰法案英語版に賛成票を投じ[6]第1回選挙法改正の第2次法案(1831年10月)に代理投票で賛成票を投じた[7]

国王ウィリアム4世の親しい友人であり、次男がウィリアム4世の庶出の娘と結婚したほか[1]、1831年9月10日には連合王国貴族であるエアシャーにおけるエイルザ島エイルザ侯爵に叙された[8]

1846年9月8日にロンドンセント・マーガレッツ英語版で死去、アンガスダン英語版で埋葬された[1]。長男アーチボルド英語版に先立たれたため、孫アーチボルドが爵位を継承した[1]

Remove ads

家族

1793年6月1日、マーガレット・アースキン英語版(1772年ごろ[9] – 1848年1月5日、ジョン・アースキンの娘)と結婚、2男4女をもうけた[1]

  • アーチボルド英語版(1794年6月4日 – 1832年8月12日) - 庶民院議員[9]。1814年5月1日、イリナ・アラーダイス(Eleanor Allardyce、1832年11月16日没、アレクサンダー・アラーダイスの娘)と結婚、子供あり。第2代エイルザ侯爵アーチボルド・ケネディの父[1]
  • アン(1797年6月26日 – ?) - 1821年8月10日、第2代準男爵サー・デイヴィッド・バード英語版と結婚、子供あり[1]
  • メアリー(1799年5月4日 – 1886年) - 1833年12月10日、リチャード・オズワルド(Richard Oswald、1834年1月9日没、リチャード・アレクサンダー・オズワルド英語版の息子)と結婚[1]
  • マーガレット英語版(1800年6月16日 – 1889年9月3日) - 1817年11月14日、トマス・エア(Thomas Eyre、1790年10月21日 – 1833年3月22日、ニューバラ伯爵の僭称者)と結婚、子供なし[1]
  • ジョン(1802年6月4日 – 1831年3月6日) - 1827年7月5日、オーガスタ・フィッツクラレンス(1865年12月8日没、国王ウィリアム4世の庶出の娘)と結婚、子供あり[1]
  • アリス・ジェーン(1805年7月2日 – ?) - 1824年3月19日、ジョナサン・ピール英語版(1879年2月13日没、初代準男爵サー・ロバート・ピールの息子)と結婚、子供あり[1]
Remove ads

出典

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads