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ウィリアム・スタンホープ (初代ハリントン伯爵)

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ウィリアム・スタンホープ (初代ハリントン伯爵)
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初代ハリントン伯爵ウィリアム・スタンホープ英語: William Stanhope, 1st Earl of Harrington, PC、1683年頃[1]/1690年頃[2][3] - 1756年12月8日)は、グレートブリテン王国の政治家、外交官

概要 アイルランド総督, 君主 ...
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生涯

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ハリントン伯爵の紋章。

エルヴァストン英語版のジョン・スタンホープの息子で、ジョージ1世の時期に活躍した政治家チャールズ・スタンホープ英語版の弟である[2]。先祖のサー・ジョン・スタンホープ(1638年没)は初代チェスターフィールド伯爵フィリップ・スタンホープ英語版の異母弟だった[2]

イートン・カレッジで教育を受けた後、従軍してスペイン継承戦争に参戦、第2近衛歩兵連隊の中尉→大尉(1703年)、第3近衛歩兵連隊の大尉→中佐(1710年)、歩兵連隊の大佐(1711年 - 1712年)として参戦した。終戦後も竜騎兵連隊の大佐(1715年 - 1718年)、第13竜騎兵連隊の大佐(1725年 - 1730年)を務め、また1735年に少将に、1739年に中将に、1747年に大将にそれぞれ昇進した[1]

その後はマドリードへの使節団に加わったり、イギリス代表としてトリノに出向したりして外交畑で活躍した[2]。1720年のハーグ条約でイギリスとスペインが講和すると、スタンホープはイギリス駐スペイン大使に任命され、英西関係が難しい状況にある時期によく務めた[2]。1727年3月に駐スペイン大使を退任した[2]。その後、1727年から1730年まで副宮内長官英語版を務め、1727年5月31日に枢密顧問官に任命された[2]。1729年、イギリス、フランス、スペイン間のセビリア条約の交渉に関与、その貢献により1730年1月にハリントン男爵に叙された[2]

同年、ウォルポール内閣第2代タウンゼンド子爵の後任として北部担当国務大臣に就任したが、平和志向のウォルポールと違い、そして国王ジョージ2世と同じく、ポーランド継承戦争神聖ローマ皇帝カール6世に味方して対仏宣戦しようとした[2]。最終的にはウォルポールの主張が通ったが、ハリントンは1742年にウォルポールが失脚するまで北部担当国務大臣に留まった[2]。その後は枢密院議長に任命され、ハリントン英語版ハリントン伯爵サリーのピーターシャム子爵に叙された[2]

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ハリントン伯爵の肖像画、ジェームズ・ウォーズデイル英語版作。

1744年、政治上の盟友であるヘンリー・ペラム初代ニューカッスル公爵により北部担当国務大臣に戻されたが、国王の寵愛を失って1746年10月に退任した[2]。その後、1747年から1751年までアイルランド総督を務め、1756年12月8日にロンドンで死去した[2]

1741年、王立協会フェローに選出された[4]

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家族

エドワード・グリフィス大佐の娘で相続人であるアン・グリフィスと結婚、双子の子供をもうけた[1]

脚注

外部リンク

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