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エア・マッシー (第4代クラリナ男爵)

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第4代クラリナ男爵エア・シャロナー・ヘンリー・マッシーEyre Challoner Henry Massey, 4th Baron Clarina CB1830年4月29日1897年12月16日)は、イギリスの軍人、アイルランド貴族。軍人としてはクリミア戦争インド大反乱に参戦し、最終階級は陸軍大将[1]。政治家としては保守党に属し、アイルランド貴族代表議員を務めた[1]

生涯

第3代クラリナ男爵エア・マッシーと妻スーザン・エリザベス(Susan Elizabeth、1809年ごろ – 1886年11月14日、ヒュー・バートンの娘)の長男として、1830年4月29日にメリルボーンベイカー・ストリートで生まれた[1]

1847年10月8日にエンサイン英語版(歩兵少尉)への辞令を購入して第68歩兵連隊英語版に入隊した[2]。1851年11月21日に第7歩兵連隊英語版の中尉への辞令を購入して昇進[3]、1852年7月30日に第31歩兵連隊英語版に転じたのち[4]、1853年1月14日に大尉への辞令を購入して昇進した[5]。1854年6月30日、第95歩兵連隊英語版に転じた[6]。この時期にクリミア戦争に参戦して[1]、戦功により1855年11月2日に少佐への名誉昇進辞令英語版を得たほか[7]、1856年夏にフランス第二帝政よりレジオンドヌール勲章シュヴァリエ(5等)を[8]、1858年3月までにオスマン帝国より5等メディジディー勲章英語版を授与された[9]。1858年7月20日にはさらに中佐への名誉昇進辞令を得た[10]インド大反乱の鎮圧にもかかわり[1]、1859年4月に殊勲者公式報告書英語版に名前が載った[11]。1865年4月3日に大佐への名誉昇進辞令を得た[12]。1874年9月9日より半給になり[13]、1877年10月1日に少将に昇進したが、1870年3月1日付で昇進した扱いとされた[14]。1881年10月1日にダブリン管区(Dublin District)の指揮官に任命された後[15]、1885年11月5日に中将に[16]、1891年に大将に昇進[1]、同年4月1日に軍務から引退した[17]。1887年6月21日、バス勲章コンパニオンを授与された[18]。軍務から引退した後も1895年11月11日にダラム軽歩兵連隊英語版隊長に就任しており[19]、1897年に死去するまで務めた[20]

1872年11月18日に父が死去すると、クラリナ男爵位を継承、1873年3月14日にアイルランド貴族代表議員選挙での投票権を認められた[1]。1888年12月31日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1897年に死去するまで務めた[21]貴族院では保守党に属した[1]

1883年時点でリムリック県に2,012エーカーの領地を所有し、年収2,497ポンドに相当した[1]

1897年12月16日に肺炎によりバタシーのアルバート・ブリッジ・ロード(Albert Bridge Road)で死去、20日にリムリック県エルム・パーク(Elm Park)の近くで埋葬された[1]。生涯未婚であり、弟ライオネル・エドワードが爵位を継承した[1]

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出典

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