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エドモンド・ロッシュ (初代ファーモイ男爵)
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初代ファーモイ男爵エドモンド・バーク・ロッシュ(英語: Edmond Burke Roche, 1st Baron Fermoy、1815年8月 – 1874年9月17日)はイギリスの政治家、アイルランド貴族。自由党に所属し、庶民院議員(在任:1837年 – 1855年、1859年 – 1865年)を務めた[1]。叙爵の特許状が貴族院で無効とされ、再発行を要したことで知られる[1]。

生涯
エドワード・ロッシュ(Edward Roche、1855年3月没)と妻マーガレット・オノリア(Margaret Honoria、旧姓カーテン(Curtain)、ウィリアム・カーテンの娘)の息子として、1815年8月に生まれた[1]。
1837年から1855年までコーク県選挙区の代表として庶民院議員を務めた[1]。議会ではダニエル・オコンネルのリピール協会(合同法廃止運動)に協力した[2]。
1855年4月、チルターン・ハンドレッズ執事に任命される形で庶民院議員を辞任した[3]。1855年5月、アイルランド貴族であるコーク県におけるトラボルガンのファーモイ男爵に叙され[4]、特許状が発行されたが、特許状への異議が1855年7月24日に貴族院で取り上げられ、ファーモイ男爵はアイルランド貴族代表議員選挙への投票を拒否された[1]。1856年5月19日には特許状を無効とする判決が下された[1]。1800年合同法に基づき、アイルランド貴族爵位の創設には既存のアイルランド貴族爵位3つの廃絶が必要であり、ファーモイ男爵の特許状ではティアコネル伯爵、メルバーン子爵、マウントラス伯爵の廃絶を創設の根拠とした[1]。しかし、マウントラス伯爵位が1802年に廃絶した後は従属爵位であるキャッスル・クート男爵位が存続した(1827年廃絶)ため[1]、貴族の人数が減っていないとして無効とされた。その後、1856年9月10日に新しく発行されたファーモイ男爵の特許状ではティアコネル伯爵、メルバーン子爵、オニール子爵(1855年2月12日廃絶)を根拠として挙げられた[1][5]。
コーク県北部と東部に広大な領地を有し[2]、1856年12月4日にコーク統監に任命され、1874年に死去するまで務めた[6]。ノース・コーク民兵隊の名誉隊長を務め、同じく1874年に死去するまで務めた[7]。コーク県以外ではウォーターフォード県ダンガーヴァン周辺に領地を有した[2]。
1859年7月、自由党候補としてメリルボーン選挙区から出馬、4,219票でトップ当選した[8]。1865年イギリス総選挙で再選を目指したが、自由党候補3名が2議席を争った結果、4,121票(得票数3位)で落選した[8]。
1874年9月17日、コーク県トラボルガン(Trabolgan)で死去、息子エドワード・フィッツエドモンド・バークが爵位を継承した[1]。
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家族
要約
視点
1848年8月22日、エリザベス・キャロライン・ブースビー(Elizabeth Caroline Boothby、1823年ごろ – 1897年4月26日、ジェームズ・ブラウネル・ブースビーの娘)と結婚[1]、5男3女をもうけた[9]。
- エドワード・フィッツエドモンド・バーク(1850年5月23日 – 1920年9月1日) - 第2代ファーモイ男爵[1]
- ジェームズ・ブースビー・バーク(1852年7月28日 – 1920年11月3日) - 第3代ファーモイ男爵[1]
- アレクシス・チャールズ・バーク(Alexis Charles Burke、1853年6月30日 – 1914年12月17日) - 1882年4月24日、ルーシー・モード・ゴッシェン(Lucy Maude Goschen、1909年3月16日没、初代ゴッシェン子爵ジョージ・ゴッシェンの娘)と結婚、子供あり[9]
- イリナ・シャーロット・バーク(Eleanor Charlotte Burke、1854年9月15日[10] – 1938年4月16日) - 1881年6月21日、ウィリアム・ニコラス・リーダー(William Nicholas Leader)と結婚[9]
- ユリック・ド・ループ・バーク(Ulick De Rupe Burke、1856年1月16日 – 1919年4月23日) - 1882年9月23日、アグネス・ブレア・メイン(Agnes Blair Mayne、1905年1月25日没、ジャスパー・オトウェイ・メインの娘)と結婚、子供なし。1906年2月15日、ドロシア・ブランシュ・ジョーンズ(Dorothea Blanche Jones、1963年4月7日没[11]、ジョン・ジョーンズの娘)と再婚、子供あり[9]。ドロシア・ブランシュは1931年12月5日にパーシー・ウィリアム・オールデイ(Percy William Allday、1937年4月7日没)と再婚[9]
- イライザ・シャーロット・バーク(1857年10月17日[10] – 1940年11月8日) - 1905年1月24日、フリードリヒ・マクシミリアン・フォン・ホッホベルク(Friedrich Maximilian von Hochberg、1921年9月16日没、ハンス・ハインリヒ11世・フォン・ホッホベルクの息子)と結婚[9]。1925年9月28日、イギリス国籍に復帰した[9]
- エドマンド・バーク(Edmund Burke、1859年9月29日 – 1948年6月21日) - 1912年、エリザベス・ブランシュ・クラパム(Elizabeth Blanche Clapham、1956年以降没、ジョン・グリーヴス・クラパムの娘)と結婚、子供なし[9]
- エセル・キャスリーン・バーク(Ethel Kathleen Burke、1861年7月4日[10] – 1935年12月10日没) - 1891年8月20日、ノーマン・マクリーン(Norman McLean、1928年11月15日没、J・D・マクリーンの息子)と結婚[9]
- 息子(1864年9月5日[10] – ?)
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出典
外部リンク
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