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エノラ・ゲイ
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エノラ・ゲイ(アメリカ英語: Enola Gay)は、太平洋戦争末期に運用されたアメリカ陸軍航空軍第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29の機名。B-29の中で原爆投下用の改造(シルバープレート形態)が施された15機の内の1機である。ビクターナンバー[1]82、機体番号44-86292号機。
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1945年8月6日午前8時15分に広島県広島市に原子爆弾(原爆)「リトルボーイ」を投下したことで知られる。また、同年8月9日の長崎県長崎市への原爆投下の際にも、投下の第1目標となった小倉市(現北九州市)の天候観測機として作戦に参加している。
概要
エノラ・ゲイは、ネブラスカ州に存在したグレン・L・マーティン・カンパニー ベルビュー工場(現オファット空軍基地)で製造された。その後、ポール・ティベッツ大佐により1945年5月18日に陸軍航空隊509混成部隊へ配属されることとなる。1945年7月6日にはアメリカ本土からテニアン島へ到着し、その日のうちに原爆を搭載するため、爆弾倉の改造が行われている。
配属当初、ビクターナンバー「12」が割り当てられたが、所属部隊を表す垂直尾翼のマーキングを特殊作戦機と悟られないよう、通常爆撃戦隊である「第6爆撃隊」表示である大型円中心にRへと変更したため、誤認防止のため「82」へ変更された[注釈 1]。初期は特殊任務機表示である大型円中心に左向きの矢印である。なお、原子爆弾投下に関する作戦任務終了後の1945年8月中には、テニアン島北飛行場に於いてビクターナンバーは「82」のままで垂直尾翼のマーキングだけを元に戻している。
エノラ・ゲイは9回の訓練ののち、神戸・名古屋へのパンプキン爆弾を使用した爆撃を行った。7月31日には、テニアン沖にて、原爆投下のリハーサルを行い、「模擬リトルボーイ」(L6テスト)[3]を投下した[注釈 2]。
機体名称の由来は、機長であるティベッツ大佐の母親、エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets)から採られたものである[5]。しかし、重要な任務を行う機体に対して母親の名前を付けることに、44-86292号機司令であるロバート・A・ルイス大尉(原爆投下任務時は副機長を務めた)は強い不快感を示した。
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事前投下訓練
機体番号292 ビクターナンバー12[6]は、合計9回の投下・飛行訓練に使用された。7月7、9、12、19、22日以外は、機長はルイスRobert A. Lewis(クルーB-9)だった。
- 7月12日 出撃命令14号 ロタ島爆撃
- 7月17日 出撃命令16号 機器調整とオリエンテーション
- 2機[15]で行う。機器調整および周辺オリエンテーション。
- ファラロン・デ・パジャロス(farallon de Pajaros)へ行き、マウグ(Maug)島を経由してロタ島周辺に至りティニアンに帰る[16]。
- 7月19日 出撃命令19号 ググアン島爆撃
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パンプキン爆弾の投下
→詳細は「パンプキン爆弾」を参照
1945年7月6日にアメリカ本土からテニアン島へ到着して以来、15組のクルーのうちクルーB-9は、エノラ・ゲイを様々な飛行訓練に使用した。第509混成部隊は、1945年7月20日から実戦として約2トンのTNT爆薬を搭載したパンプキン爆弾の投下を日本各地で行った。機体番号292 ビクターナンバー12(エノラ・ゲイ)は、次の作戦に参加した。
7月24日 出撃命令24号(作戦任務5,6,7)
作戦任務番号5,6,7の文書に詳細が記入されている。
出撃命令24号。作戦日 1945年7月24日。第509混成部隊のシルバープレート10機[28]が参加。そのうちの1機が機体番号292 ビクターナンバー12(エノラ・ゲイ)であった[29]。機長ルイス、クルー B-9。補助乗員にビーブ(Vernon C. Beebe)が加わる[30]。
結果報告書(最終報告、任務No.6)には次のようなことが書かれている。
「投弾目標は、神戸製鋼、目標番号1768(北緯34°41’45”–東経135°13’20”)。目視投弾。爆撃の結果は投弾後観測せず。投弾後目標が雲に隠れたため。」[31]。
戦後、この着弾地点は不明のままであった。近年の調査(日記と航空写真など)によって、 兵庫県立神戸高等学校裏手の摩耶山(まやさん)に着弾した可能性が浮上している[32][33]。
摩耶山で見つかった金属片を分析調査した結果、「模擬原爆」ではなく通常の250Kg爆弾のものだったと2024年12月に報道された[34]。さらに調査は続けられる。
7月26日 出撃命令27号 名古屋
任務番号9。10機が出撃[35][36]。292号機は機長 ルイス。クルー B-9。補助乗員にビーブ(Vernon C. Beebe)が加わる。
「最終報告」によれば、292号機は、名古屋(北緯35°08’ - 東経136°55’)を攻撃。
天候は、10/10の雲が覆う[37]。レーダー攻撃[38]。
パンプキン爆弾は、1945年7月26日午前9時41分、名古屋市昭和区山手通2丁目(八事日赤病院北交差点)に投下されていた。この場所で、1個の4.5トンの大型爆弾(これには通常の火薬が約2トンが詰め込まれていた)が爆発した。死亡5、傷1以上[注釈 3]。
広島市への原爆投下
要約
視点
→詳細は「広島市への原子爆弾投下」を参照
作戦に関わった機体名、クルー名などをまとめると次の表になる[40]。
最終報告には、爆撃の結果は「優秀」、任務成果は「優秀」と記載されている[41][42]。
1971年(昭和46年)に発刊された『広島原爆戦災誌 全巻』(本論4巻・資料編1巻 計5巻)のPDFファイル[43]の1408ページのうち29ページから30ページにウィリアム・スターリング・パーソンズ大佐の航空日誌が引用掲載されている。26ページには、「広島市への侵入経路」等の図が掲載されている。エノラ・ゲイのナビゲータだったヴァン・カークは飛行ログファイルを残している[44]。
テニアン島北飛行場を出発
8月4日の午後3時にブリーフィングが行われた。作戦に参加する7機の関係者が集まった。ティベッツ、パーソンズが作戦について説明した。8月5日、午後3時30分、原爆リトルボーイが組み立て小屋から地面に掘られた1.8m×4mのピットへ運ばれた。牽引されてきたB-29爆撃機 シルバープレート 82号機の機首に「エノラ・ゲイ」と書かれ、垂直尾翼のマークがRに書き換えられた。その後、原爆リトルボーイは油圧式ウィンチで爆弾倉に牽き上げられた。夕食までに給油と点検作業が行われた。出発直前、尾部銃手ボブは、写真班の将校、ジェローム・J・オシップから爆発の瞬間を撮影するようにK-20カメラを渡された[45]。エノラ・ゲイの機体を背に、ライトが輝く中で記念撮影後、午前2時20分、機内へ入り出発準備に入った[46]。午前2時45分、A滑走路から東へ離陸。この後、2分間隔でグレート・アーティスト、91号が離陸した[47]。
硫黄島上空
午前5時20分、硫黄島上空。3分後に3機が合流[48]。午前7時25分、ストレートフラッシュからの暗号無線を受信[49]。「全高度にわたり雲量は3/10以下」 「助言、第一目標に投下。」[50]
広島へ向かう
眼下に四国が見え、彼方に瀬戸内海が広がっていた。午前8時5分、攻撃始点。午前8時12分、高度9400mで相生橋から26Km東の投下点に至る。午前8時13分30秒すべてが爆撃手に任され、全員は保護めがねを付けた[51]。後方、1.6Kmにグレート・アーティストと3.2Kmに91号が飛行していた[51]。
広島市へ原子爆弾「リトルボーイ」投弾
午前8時15分17秒、上空9600mから投下[52]。エノラ・ゲイは、機体を60度に傾けて右に急旋回し速度を上げて急降下の退避飛行を行った。グレート・アーティストは爆発威力を測定する3個のラジオゾンデを投下し、60度に機体を傾け左へ急旋回して急降下で退避飛行を行った。リトルボーイ投下から43秒後、午前8時16分、相生橋から240m離れた島病院の上空540mで炸裂した[53][54]。目も眩む閃光のあと、2度の衝撃が機体を襲った[55]。尾部銃手ボブは銃座からキノコ雲の写真を撮影した[56]。
テニアン島北飛行場へ帰着
テニアン島まであと38分の上空で、ティベッツはファレル准将からの祝電を受け取った[57]。グレート・アーティストと91号はエノラ・ゲイを先に着陸させた。テニアン時間14時58分着陸(日本時間:13時58分)。12時間13分の飛行時間だった。写真班のオシップはボブからK-20カメラを受け取り、グレート・アーティスト、91号の機体下部に取り付けてあったK-17カメラの撮影済みフィルムを取りだし現像処理を行った。しかし、使用できるものはボブが撮影したキノコ雲の写真のみだった[58]。
駐機場で戦略航空軍司令官カール・トゥーイ・スパーツ大将がティベッツの飛行服の胸に殊勲十字章を着けた。他の搭乗員は銀星章が授与された。エノラ・ゲイの搭乗員は、その日の午後、医療関係者による診察を受け、報告会[59]に出席した。会場には、ジャイルズ(Barney Giles)、トゥワイニング( Gen Twining)、デイビス(Gen Davies)などが同席し[60]、バン・カークの報告などを聞いた。情報部将校ヘイズン・ペイエット Hazen Payette が司会進行し、報告を受けた。
トルーマン大統領は、ポツダム会談から帰国する途中の旅の4日目、オーガスタの乗組員と一緒に昼食をとっているときに、ホワイトハウスのマップルームの当直官フランク・グラハム大尉から電文を渡された[61]。
陸軍長官から大統領宛
ワシントン時間8月5日午後7時15分、広島に大型爆弾を投下。
先の実験をはるかにしのぐ結果
完全なる成功との第一報
その後、世界に向かって原子爆弾を広島へ投下したことを発表した。
広島への原爆投下を伝える米大統領の声明(抄)[62]
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作戦終了後
1945年11月8日にニューメキシコ州、ロズウェル陸軍航空基地(現ウォーカー空軍基地)に到着。1946年4月29日にクロスロード作戦に参加するためクェゼリン環礁に向かうが、投下作戦がビキニ環礁に変更となったため、翌日にカリフォルニア州トラビス空軍基地へと帰還している。その後、機体保存が決定され、1946年7月24日にアリゾナ州デビスモンサン空軍基地へと移送された。1946年8月30日には陸軍航空隊を除籍し、スミソニアン博物館名義へと変更されている。その後1953年12月2日メリーランド州、アンドルーズ空軍基地へ移送、そこで解体保存されることとなる。
国立航空宇宙博物館展示騒動

1995年に、国立航空宇宙博物館側が原爆被害や歴史的背景も含めて、レストア中のエノラ・ゲイの展示を計画した。この情報が伝わると、アメリカ退役軍人団体などから抗議の強い圧力がかけられ、その結果、展示は広島への原爆被害や歴史的背景を省くこととなり、規模が大幅に縮小され機体と簡単な説明文のみの展示となった。この一連の騒動の責任を取り、マーティン・ハーウィット館長は辞任した[63][64]。
その後、エノラ・ゲイはレストアが完了し、同博物館の別館となるスティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター(ワシントン・ダレス国際空港近郊に位置)が完成したことにより、現在はその中で公開されている。重要な常用展示機体であり、その歴史的背景から破壊行為などが行われないよう、複数の監視モニターにて監視され、不用意に機体に近づく不審者に対しては監視カメラが自動追尾し、同時に警報が発生するシステムを採用。2005年には映像解析装置も組み込まれるなど、厳重な管理の元で公開されている。
前述したような事態が繰り返されるのを避ける目的で、原爆被害や歴史的背景は一切説明されていないために、その展示方法には批判的な意見も存在する。
その後、同博物館は2025年に予定されている展示刷新に合わせて、原爆投下後の広島と長崎の街を写した写真の展示を計画している[65][66]。
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乗組員

出撃当時の乗組員構成(全12名)。2014年7月28日、同機最後の生存者であったセオドア・ヴァン・カークが93歳で死去したため、ボックスカーを含め、原爆投下に参加した搭乗員の存命者はいなくなった[67]。
- 機長・操縦士:ポール・ティベッツ(Paul W. Tibbets, Jr.)
- 副操縦士:ロバート・A・ルイス(Robert A. Lewis)
- 爆撃手:トーマス・フィヤビー(Thomas Ferebee)
- レーダー士:ジェイコブ・ビーザー(Jacob Beser 1921〜92) - ボックスカーにも搭乗し、長崎の原爆投下にも参加した唯一の人物[68]。71歳で死去[69]。
- 航法士:セオドア・ヴァン・カーク (Theodore Van Kirk)- 原爆投下は「奪った命より多くの命を救った」戦争終結に必要な手段だったとしつつも、繰り返してはならない「過ち」であると語っている[70]。
- 無線通信士:リチャード・H・ネルソン(Richard H. Nelson 1925〜2003)- 「亡くなった人に対しては気の毒に思うが、原爆投下に参加したこと自体に後悔はない」と語っている[71]。
- 原爆点火装置設定担当:ウィリアム・S・パーソンズ(William S.Parsons)
- 電気回路制御・計測士:モリス・ジェプソン(Morris R. Jeppson)
- 後尾機銃手・写真撮影係:ジョージ・R・キャロン(George R. Caron)
- 胴下機銃手・電気士:ロバート・H・シューマード(Robert H. Shumard 1920〜67)
- 航空機関士:ワイアット・E・ドゥゼンベリー(Wyatt E. Duzenberry 1913〜92)
- レーダー技術士官:ジョー・S・スティボリック(Joe S. Stiborik 1914〜84)
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脚注
参考文献
エノラ・ゲイを題材とした文学・芸術作品
関連項目
外部リンク
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