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エフゲーニー・バウエル

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エフゲーニー・バウエル
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エフゲーニー・フランツェヴィチ・バウエルロシア語: Евгений Францевич Бауэр, ラテン文字転写: Evgenii Frantsevich Bauer, 1865年 - 1917年6月22日)は、ロシア帝国(現在のロシア)の映画監督脚本家舞台美術家である。レフ・クレショフの師として知られるロシア映画黎明期の巨匠である。エフゲーニー・アンチャロフЕвгений Анчаров)の別名がある。

概要 Yevgeni Bauer エフゲーニー・バウエル, 本名 ...
Nemye svideteli (1914)
Gryozi (1915)
После смерти (1915)
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人物・来歴

1865年、ロシア帝国(現在のロシア)のモスクワに生まれる。父はチェコ系の音楽家フランツ・バウエル、母はオペラ歌手、姉は女優であった。

1887年、モスクワ美術大学を卒業、新聞に風刺画を描く仕事を得た。写真美術家として名を成した後に、演劇界に入り、演劇プロデューサー、舞台美術家となった。1890年代に女優・舞踊家のリーナ・アンチャローヴァと結婚、第一次世界大戦中は「アンチャローヴァ」の男性姓を用いて「エフゲーニー・アンチャロフ」と名乗った。戦時に「バウエル」は「あまりにゲルマン的」な名であったからだ。

1913年、48歳になるころ、アレクサンドル・ドランコフの映画会社が製作した44分のサイレント映画『ロマノフ家の三百年』に美術装置家として参加することで、映画界に入った。同年、ピョートル・チャルディニンとの共同監督作『伯父のアパート』 で、初めて映画を監督した。

1917年、アレクサンドル・ハンジョンコフとともに、ロシア帝国(現在のウクライナ)内のクリミア半島ヤルタの新しい撮影所に移り、若い俳優のレフ・クレショフとともに『幸福を求めて』の撮影を開始した。バウエルは撮影現場で脚を骨折し、次作の『パリの王者』は座ったまま演出せざるを得なくなった。

バウエルは肺炎を患い、その合併症で、二月革命後、ロシア臨時政府成立前の1917年6月22日、同地のヤルタ病院で死去した。満51-52歳没。遺作となった『パリの王者』は、女優のオルガ・ラフマノヴァが完成させた。

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おもなフィルモグラフィ

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