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エマヌエル・イプシランティ
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エマヌエル・イプシランティ(Fürst Emanuel Ypsilanti, 1877年4月30日 パリ - 1940年12月17日 ウィーン)は、ギリシャ人の貴族、政治家、外交官。公爵。
在墺ギリシャ大使グレゴール・イプシランティ公爵[1]とその妻の男爵令嬢ヘレーネ・フォン・シナ(1845年 - 1893年)の間の長男として生まれた。父はファナリオティス家門の1つイプシランティ家の末裔で、ギリシャ独立戦争の英雄アレクサンドル・イプシランティ公爵の甥にあたる。母はオーストリア=ハンガリー(二重帝国)のヴラーフ系ギリシャ人銀行家一族シナ家の当主シモン・フォン・シナ男爵の娘である。長姉シャリクレー(1863年 - 1912年)はホーエンローエ=シリングスフュルスト侯フィリップ・エルンストに嫁いだ。
ウィーンのショッテン中等教育学校を卒業後、アテネ大学、ローマ・ラ・サピエンツァ大学、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ベルリン、ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンで法学を学んだ。1899年、プロイセン王家と縁故の深いボルシア・ボン友愛会のメンバーとなった[2]。学業を終えると、志願消防隊の大尉をしながら[3]、ウィーンとラッポルテンキルヒェンで暮らした。1909年に創設されたオーストリア犬学協会の初代会長となった。
1920年代までの王制時代にはギリシャ政府に仕え、ケルキラ県行政長官[4]、国会議員、大使、内務大臣などを歴任した。ギリシャ王制が崩壊して第二共和国時代に入るとオーストリアに戻り、弟と共同で所有していたラッポルテンキルヒェン城(ニーダーエスターライヒ州ジークハルツキルヒェン)で余生を送った[5]。
彼はエスメラルダ・フォン・ガレオッティ(1875年 - 1929年)と結婚した。孫息子の1人マノリス・イプシランティ(1944年 - )は、ドイツ社会民主党所属の政治家アンドレア・イプシランティの元夫である。
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引用
参考文献
外部リンク
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