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エメリッヒ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ

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エメリッヒ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ
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エメリッヒ・フォン・ウント・ツー・アルコ・アオフ・ファーライEmmerich Graf von und zu Arco auf Valley, 1852年2月8日 - 1909年7月14日)は、ドイツの外交官。伯爵。駐日ドイツ特命全権公使(在任1901年 - 1906年)などの大使職を歴任した。

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エメリッヒ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ伯爵

生涯

バイエルン王国の大地主・政治家マクシミリアン・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ伯爵とその妻の伯爵令嬢アンナ・マレスカルキ(Contessa Anna Marescalchi、1813–1885)の間の第8子、末息子として生まれる。1870年・1871年の普仏戦争に従軍。法学を学び、1879年から1880年までミュンヘンで弁護士として働く。1888年、外交官に転じ、当初は在パリ大使館に派遣された。その後数年間、ドイツ代表としていくつかの国際会議に参加した。これにはベルリンで開かれた国際職業安全会議(1890年)、ドレスデンで開かれた国際衛生会議(1893年)、ハーグで開かれた国際司法会議(1893年)が含まれた。1895年には在ブリュッセル公使館書記官、1896年には在マドリード大使館首席書記官、1897年には在ロンドン大使館大使館首席書記官を務める[1]。ロンドン滞在中に暗殺の試みに遭遇したこともあり、1898年には駐ブラジル公使に任命された[2]

1901年4月、駐日公使に任命され東京に赴任。これは日独関係において非常に困難な時期を迎え、前任者のフェリックス・フォン・グーチミートドイツ語版の愚行を正すための任務を引き受けることになったためだ。アルコは着任直後にドイツ東洋文化研究協会会長を務めた[3]。1902年1月、日英同盟の予備協定が東京で締結された。正式署名以前からアルコは未公開条約文に接近することができた。当時、彼の最も近い協力者であり腹心はドイツ公使館の法律顧問であるカール・フォークトドイツ語版だった。後日、フォークトはアルコが日独間の友好関係回復のための道を開くために、新しい職責にありながら疲れるまで休まず働いたと記録した[4]。アルコの離任後、駐日公使館は大使館に昇格した。

1906年、駐ギリシャ全権公使に転任。2年間の在任後、1908年にアルコはブラジルへの転勤を要請する書簡を提出した。しかし、彼の体調が良くないため、医師たちは転勤を引き止めた。それでも彼は2度目の駐ブラジル公使職に就いた[5]。しかし、赴任して間もない1909年7月14日、ペトロポリスにて心不全で急死した[6]

クルト・アイスナーの暗殺犯アントン・フォン・アルコ・アオフ・ファーライは甥にあたる。

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参考文献

  • Erwein Freiherr von Aretin: Arco-Valley, Emmerich Graf von. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 1, Duncker & Humblot, Berlin 1953, ISBN 3-428-00182-6, S. 337

引用

関連項目

外部リンク

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