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オスカー・ベンル

ドイツの日本研究者 ウィキペディアから

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オスカー・ベンル(Oscar Benl、1914年5月25日 - 1986年11月21日[2])は、ドイツの日本研究[1]。彼は吉田兼好から安部公房にいたる数多くの古典および現代日本文学ドイツ語に翻訳した。また禅、仏教、古典芸能について著作を多く残した[3]

概要 オスカー・ベンルOscar Benl, 生誕 ...

生涯

ベンルはニュルンベルクに生まれ、そこで小中学校に通った後、1928年からミュンヘンのギムナジウムに通った[3]。1933年からミュンヘンとハンブルクで法学を、その後1935年から中国学を学んだ[2]。その過程で日本文学に興味を持ち、留学を目指して日本語を学ぶ[4]。1937年から1940年まで私費で東京帝国大学に留学し、久松潜一に師事、日本の古典文学を学んだ[1]。この留学は東京の日独文化協会とドイツの日本学会との協力で行われた学生交換によるもので、ドイツからの留学生には日独文化協会から毎月150円が支給された[5]。1940年には吉田兼好『徒然草』のドイツ語訳Tsurezuregusa, oder, Aufzeichnungen aus Mussestundenを日独文化協会から出版した[6][7][8]。ベンルはこの翻訳について、「日本精神を本当に知るためにはこの平安、鎌倉両時代の風俗習慣が一番だと思うから独訳した」と語っている[9]

ドイツに帰国後、ベンルは1941年から1945年までハンブルク大学の日本語・日本文化セミナーで、ヴィルヘルム・グンデルトの助手を務めた[2]。1943年には「世阿弥の芸術的理想」のタイトルの学位論文を提出し、グンデルトの元で博士号を取得した[注釈 1]

同時期1941年から1945年までベンルは兵役につき(ドイツ国防軍の通訳官として)、1944年からは駐日ドイツ大使館に勤務した[2]。1947年にドイツに帰国後、1948年にはミュンヘン大学で日本学を研究し、「16世紀に至る日本歌論の発展」について論文を発表した[2]。同年彼はハンブルク大学で助手に復帰し、1953年には助教授、1956年からは教授となった[2]。彼は1983年に退職するまでこの地位にあり、教師として、研究者として活動した[2]

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翻訳(抜粋)

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著作(抜粋)

人物

  • 1950年代にハンブルク大学で仏教学の客員教授を務めた佐々木現順は、日本学主任教授のベンルについて、学究肌の謙虚な学者で、学生はもとより市民への講演でも信望を集めていること、日本語に関する知識は日本人以上かもしれず、彼の元から多くの日本文学に関する論文が出され、多くの門弟を持っていることを記している[12]
  • ベンルは仏教思想を理解するためにパーリ語を研究し、また大学でアジアの言語を扱うことになったときにはタイ語を担当した。彼の興味の幅は広く、ポルトガル文学、英米文学、イタリア文学、そしてフランス文学に深く通じていた[3]

参考文献

  • 東京大学国語国文学会「国語と国文学」、筑摩書房、1941年9月、doi:10.11501/3549250NDLJP:3549250。「国立国会図書館デジタルコレクション マスターフィルムにゴミ・キズあり」
  • 佐々木現順『人と人』学而堂、1960年。CRID 1130000796551088512doi:10.11501/2982221NDLJP:2982221。「国立国会図書館デジタルコレクション」
  • Annelotte Piper: Erinnerungen an Oscar Benl (1914–1986). In: Hefte für ostasiatische Literatur. H. 6 (September 1987), p99-105 (online).

脚注

外部リンク

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