トップQs
タイムライン
チャット
視点
カルバ
ウィキペディアから
Remove ads
カルバ(アラビア語: كلباء Kalbāʾ、英語: Kalba)は、アラブ首長国連邦の都市である。長母音を省略せず、カルバーとも。
![]() |
Remove ads
概要
オマーン湾に面するフジャイラの南にあるシャールジャ首長国の飛び地である。オマーンとの国境地帯にあるホール・カルバ(Khor Kalba خور كلباء)は、アラブ首長国連邦の主要なマングローブの原生林かつ自然保護区である。マングローブの樹種はヒルギダマシで、タイマイ、アオウミガメなどのウミガメおよびナンヨウショウビン、アラビアウタイムシクイなどの鳥類が生息している。付近の砂浜、塩性湿地、塩類平原およびアカシアが生える狭い沖積平野などを含む一帯は2013年にラムサール条約登録地となった[1]。
カルバは16世紀にポルトガル海上帝国の植民地となり、'Ghallah' と呼ばれていた。1811年3月にマスカット・オマーンのスルタンに占領されオマーン帝国の支配下となり、反海賊勢力の拠点となった。英国に承認された1936年からシャールジャに併合される1951年まで、トルーシャル・オマーンを構成する一首長国カルバ首長国[2][3]であった。
ホール・カルバはシュルーク[4]による観光地化(エコツーリズム)の為、現在閉鎖されており、一部の保護活動家や環境保護論者はこれに対して懸念を表明した。[5]
Remove ads
歴史
マージド・ビン・スルターン・ビン・サクル・アル=カースィミーが、シャマリーヤ地方(カルバを含む)を兄であるシャルジャ首長のサーリム・ビン・スルターン・アル=カースィミーから賜った事からカルバの統治は始まった。カルバでは、マージド・ビン・スルターンの二人の息子・ハマド・ビン・マージドと、アフマド・ビン・マージドの共同統治が続いた。
ハマドの息子のサイードが、1902年にフジャイラの独立の際に父・ハマドの後を継いで首長となった。一時期サイード・ビン・ハマドはカルバの統治を彼の奴隷のバルートに任せてアジュマンに引っ越したが、1920年代にサイードはカルバの統治に戻り、1936年には英国にカルバ首長国として認められ飛行場を設立し、インペリアル・エアウェイズがアル=マハッタとカルバを結ぶ臨時航路を就航させた。
交通
ホール・カルバへは、3本の道路でアクセスが可能。一つ目はマリハ・ロード(Maliha Road شارع مليحة)。二つ目がシャールジャ=カルバ・ロード(Sharjah-Kalba Road、シャルジャ国際空港を起点とする全長90km)で、三つ目がフジャイラ=カルバ・ロード(Fujairah-Kalba Road、80km)である。なお、フジャイラ=カルバ・ロードは隣国オマーンまで延びている。
統治者
- マージド・ビン・スルターン・アル=カースィミー(Majid bin Sultan al-Qasimi、1871年~1900年)
- ハマド・ビン・マージド・アル=カースィミー(Hamad bin Majid al-Qasimi、1900年~1903年)
実際の独立は1903年のシャルジャからの分離独立だが、現地では英国に国家承認された1936年と認識されている。
- サイード・イブン・ハマド・アル=カースィミー(Said ibn Hamad al-Qasimi、1903年4月30日~1937年)
- ハマド・イブン・サイード・アル=カースィミー(Hamad ibn Said al-Qasimi、1937年4月30日~1951年)
- サクル・イブン・スルターン・アル=カースィミー(Saqr ibn Sultan al-Qasimi、1951年~1952年、シャールジャ首長兼任1951年~1965年)
1952年 シャールジャに併合され、消滅。
Remove ads
脚注
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads