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カワード2世
サーサーン朝の君主 ウィキペディアから
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カワード2世(パフラヴィー語: 𐭪𐭥𐭠𐭲、Kawād、ペルシア語: قباد)は、サーサーン朝の王(シャー)である。在位期間は628年2月25日から同年9月6日と極めて短期間であった。先代のホスロー2世の子であり、サーサーン朝の激動期に即位し、その死後にはさらなる混乱が続くこととなる。
生涯
カワード2世は、長きにわたる東ローマ帝国との戦争を継続し、国力を疲弊させたホスロー2世の子として生まれた。ホスロー2世の治世末期、サーサーン朝はビザンツ帝国との大規模な戦争(東ローマ・サーサーン戦争、602年-628年)によって疲弊しきっていた。627年のニネヴェの戦いでの決定的な敗北は、ホスロー2世の権威を失墜させ、国内の貴族たちの不満を募らせる結果となった。
628年2月25日、カワード2世は貴族たちの支援を受けてクーデターを起こし、父ホスロー2世を幽閉した後に処刑して即位した。この即位に際し、自身の兄弟や異母兄弟もすべて粛清したとされている。
治世
カワード2世の治世はわずか半年余りであったが、いくつかの重要な政策を実行した。
死とその後
カワード2世は、即位からわずか数ヶ月後の628年9月6日、シュロエの疫病と呼ばれる疾病(おそらくペスト)に罹患して崩御した。
彼の死後、王位はわずか7歳の息子アルダシール3世が継承した。しかし、幼王の統治は不安定であり、サーサーン朝は以降、短期間に多数の王が交代する混乱期に突入することになる。この政治的混乱と国力の疲弊は、後にイスラーム勢力によるペルシア征服を容易にする要因の一つとなった。
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参考書籍
- 青木健『ペルシア帝国』(講談社選書メチエ、2012年)
- 井谷鋼造『イスラーム世界の歴史』(放送大学教育振興会、2003年)
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