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カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン

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カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン
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カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲンドイツ語: Prinz Karl Alexander von Lothringen und Bar, 1712年12月12日 - 1780年7月4日)は、ロートリンゲン公(ロレーヌ公レオポルトの息子で神聖ローマ皇帝フランツ1世の弟。オーストリアで軍司令官、およびオーストリア領ネーデルラント総督を務めた。またドイツ騎士団総長でもあった。フランス語名はシャルル・アレクサンドル・ド・ロレーヌCharles Alexandre de Lorraine)。日本ではカール公子と呼ばれることもある。

概要 カール・アレクサンダー Karl Alexander, 全名 ...
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略歴

要約
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出自

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ピエール・ゴベール画(1720年)ヴェルサイユ宮殿所蔵

ロートリンゲン公(ロレーヌ公レオポルトの末子として、1712年12月12日にリュネヴィルで生まれた[2]。軍人となるべく教育を受け、兄にあたるフランツ・シュテファン(ロレーヌ公、後の神聖ローマ皇帝フランツ1世)がハプスブルク家マリア・テレジアと結婚して(1736年)、ロレーヌ公国との交換でトスカーナ大公国を獲得した後(1737年)、カール・アレクサンダーはハプスブルク帝国(オーストリア)の軍人になり、オーストリア・ロシア・トルコ戦争では1737年と1738年の戦役に参戦した[2]

オーストリア継承戦争

オーストリア継承戦争の際にはマリア・テレジアにより元帥に任命され、オーストリア軍の主要な指揮官の一人となった[2]プロイセンフリードリヒ2世との最初の戦闘となる1742年5月17日のホトゥジツェの戦いでは敗北したが、規律を保って撤退することに成功、1743年の対フランスバイエルン戦役でも成功を収めた[2]。1744年1月にはマリア・テレジアの妹マリア・アンナと結婚、同年に妻と共同でオーストリア領ネーデルラント総督に任命された[2]。しかし、マリア・アンナは同年12月16日にブリュッセルで出産中に亡くなった[2]

1744年の戦役ではオーストリア軍を率いてライン川渡河に成功、そのままロレーヌ公国に侵攻したが、フリードリヒ2世がボヘミアに侵攻した(第二次シュレージエン戦争)ためロレーヌからの撤退を余儀なくされた[2]。そのままボヘミアに急行したカール・アレクサンダーは老将オットー・フェルディナンド・フォン・トラウンの助言もありプロイセン軍をボヘミアから追い出したが、翌年のシュレージエン戦役ではトラウンからの助言がなく、ホーエンフリートベルクの戦いゾーアの戦いでプロイセン軍に大敗、1746年のネーデルラント戦役でもロクールの戦いでフランスの将軍モーリス・ド・サックスに敗れている[2]

オーストリア継承戦争の終戦後はオーストリア領ネーデルラントの統治に関わり、多くの改革を精力的に行ったことで大衆の人気を勝ち取った[2]

七年戦争

1756年に七年戦争が勃発すると、オーストリア軍が緒戦に敗れたため、マリア・テレジアはカール・アレクサンダーを呼び戻したが、カール・アレクサンダーは1757年のプラハの戦いで再びプロイセン軍に敗北、プラハ城内に封鎖された[2]。その後、プロイセン軍がコリンの戦いで敗れてプラハの包囲が解かれた[2]。カール・アレクサンダーは同年11月のブレスラウの戦いでプロイセン軍に勝利したが、フリードリヒ2世は直後のロスバッハの戦いでフランス軍を敗走させ、さらに12月5日のロイテンの戦いでカール・アレクサンダーに完勝した[2]。以降カール・アレクサンダーは指揮官の座を降り、1年ほどウィーンで軍事顧問を務めた後ブリュッセルに戻り、オーストリア領ネーデルラントの統治に専念した[2]。また、指揮官退任とともにマリア・テレジア軍事勲章大十字章を授与された[2]

晩年

軍務引退以降もネーデルラントでの人気が高く、1775年にはブラバント議会がブリュッセルでカール・アレクサンダーの彫像を立てた[2]。1780年7月4日にテルビュレン英語版城で死去。7月10日、ブリュッセル聖ミシェルと聖ギュデュル大聖堂フランス語版に埋葬された。心臓は抜き取られて祖先の眠るナンシーサン・フランソワ・ド・コルディア教会フランス語版に納められた[2]

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脚註

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