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オーストリアの作曲家、ピアニスト、ピアノ教師 ウィキペディアから
カール・チェルニー(Carl Czerny ドイツ語: [karl ˈtʃɛrni], 1791年2月21日 ウィーン - 1857年7月15日 ウィーン)は、オーストリアの作曲家、ピアニスト、ピアノ教師。父はボヘミア出身で、苗字はチェコ語: Černý([ˈtʃɛrniː] チェルニー、「黒い」の意味)に由来している。ドイツ語では発音は「チェルニ」[ˈtʃɛrni][1]だが、日本では「ツェルニー」と発音・表記されることも少なくない[注 1]。
ベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、リストおよびレシェティツキの師。作風は初期ロマン派の傾向に留まった。デビュー後のリストの演奏様式に懐疑的であった時期もあるが、ショパンやリストのような後代の作曲家の斬新性を高く評価し、彼らの編曲や校訂活動を熱心に行った。作品番号は861に上り、未出版のものを含めて1,000曲以上の作品を残した多作家であったが、現在は実用的なピアノ練習曲を数多く残したことで有名な存在である。「王立ピアノ学校~理論的かつ実践的ピアノ演奏教程」op.500は、当時の演奏風習までを網羅したチェルニー最大の著作である。チェルニーの作曲活動は半世紀に及んだ。初期Op.1-199は純器楽曲の追求、中期Op.200-599からはクラヴィア練習曲または作曲法教程作家としてのメカニックの追求、後期Op.600-861からは(練習曲作家を継続こそしたが)宗教曲作家としての追求が嗜好に加味されていった。未出版に終わった「テ・デウム(1856年)」は死の前年に完成している。
チェルニーはウィーンでチェコの音楽家の一家に生まれた。祖父はボヘミアのニンブルク[注 2]のアマチュア・ヴァイオリニストであり、父のヴェンツェル(ヴァーツラフ)・チェルニー (独: Wenzel Czerny, 捷: Václav Černý) は、プラハの修道院で合唱やオルガン演奏に従事したあと、軍隊に15年間務めた。結婚ののち、プラハからウィーンに出て、ピアノ教師として生計を立てるようになった。家庭内の会話はチェコ語で行われたため、チェルニーは6、7歳になっても片言程度のドイツ語しか話すことができなかった。神童であったチェルニーは3歳でピアノを弾き、7歳で作曲を行った。最初にピアノを教えたのは父で、息子に主にバッハ、モーツァルト、クレメンティなどを教えた。やがて彼は父の友人を介してベートーヴェンの作品を知るに至り、弟子入りを志願。10歳の時に、ベートーヴェンの家を訪れて「悲愴ソナタ」を弾く機会に恵まれ、弟子入りを果たした。チェルニーは続く3年間ベートーヴェンの指導を受け、ピアノ演奏の基礎から学びなおさせられた。また彼はフンメルからもレッスンを受けた。さらにクレメンティがパリ、ウィーン、サンクトペテルブルク、ベルリン、プラハ、ローマ、ミラノで開いていた講座にも出席した。
チェルニーがはじめて公開演奏を行ったのは1800年、曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第24番だったと伝えられている。チェルニーは暗譜力に優れていたためベートーヴェンの曲は全て演奏することができた。しかしながら、演奏家ではなく作曲家・教師あるいは音楽理論家に天職を見出した彼は、演奏活動から身を引いてしまった。彼が再び公での演奏を行うのは1812年2月、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」のウィーン初演(世界初演はライプツィヒにて)のソリストに選ばれた時であった。チェルニーによるウィーン初演後、「皇帝」がベートーヴェンの生前に演奏されることはなかった。ベートーヴェン没後、チェルニーの作曲のペースは非常に速くなり、周囲の期待にこたえて多くの作品を速筆で生み出した。
当時のベートーヴェンは「ピアノ演奏法という著作をどうしても編みたいが、時間の余裕がない」と語っており、彼の願望は練習曲集や理論書の著者であるチェルニーやクレメンティやクラーマーに受け継がれていくことになる。作品番号の膨大さからもわかるように収入には困っていなかったが、コンサート・ピアニストとして表舞台に立つことはほとんどなかった。チェルニーは生涯を通じてほとんどウィーンに留まっており、1836年にライプツィヒ、1837年にパリとロンドン、1846年にロンバルディアに赴いただけである[2]。
チェルニーに学んだ作曲家としてもっとも有名なのはフランツ・リストである。リストがチェルニーに師事したのは1822年から1823年の14か月間に過ぎないが、その後も長く交友関係が続いた[3]。チェルニーはリストが生涯でピアノを師事した唯一の人物であり、リストの『24の大練習曲』およびその改訂版である『超絶技巧練習曲』はチェルニーに献呈されている[4]。
彼は痛風を患い、66歳でウィーンに没した[5]。生涯独身を貫き、近しい親族もなかった。体調を大きく崩した1857年には、チェルニーが評価したショパンやシューマン、メンデルスゾーン、シューベルトなどの年下の多くの作曲家はすでに鬼籍に入ってしまい、ピアノ・ヴィルトゥオーゾの時代も終わってしまっていた。
死の直前、友人で弁護士であったゾンライトナー[注 3]の助けを借り、膨大な資産を整理して遺言書を作成した[2]。
1842年に自伝『わが生涯の思いで』(Erinnerungen aus meinem Leben)を書き、ベートーヴェンに関する重要な証言を含んでいたが、長らく未出版だった(ウィーン楽友協会蔵)。1968年に出版された[6]。
チェルニーの大部分の自筆譜はウィーン楽友協会が保存している。膨大すぎるため、20世紀にほとんど研究は行われてこなかった。また、出版社が多岐にわたったために、作品の収集は難航したが、彼が同時代で著名であったことも幸いして出版作品のタイトルはほぼ解明されている。
21世紀に入り、チェルニーの生涯に改めて光を当てる試みが多くの地域でなされている。アメリカではチェルニー作品のみのピアノフェスティバルが開催された。オランダではチェルニーの弦楽四重奏の世界初演が行われた。フランスの作曲家兼ピアニストジャン=フレデリック・ヌーブルジェはチェルニー50番を音楽作品として正当に扱い、CD録音に成功している。
出版番号は「出版された」作品のみに限られており、未発表の自筆譜のままの作品には不明な点が多く残されている。たとえば、弦楽四重奏曲は少なくとも20曲[7]以上が確認されているが、出版番号は付されることがなかった。
多くの作品が絶版のため、imslpへアップロードされた楽譜ほかが数多く出回っており、新規の出版は同時代の作曲家に比べてあまり行われていない。
音楽学校で正規に学んだ人物ではなかった[注 4]。しかし、大学教授や音楽学校の教員やアマチュア愛好家からは常に信頼の対象であったことは間違いない。それを裏付ける証拠は「実践的作曲技法Op.600」をテキストとして採択した学校の数に表れており、出版譜にも購入者名一覧が掲載されている。
Op.600も第一巻はピアノ楽曲作曲法、第二巻は室内楽と合唱の作曲法、そして、最後の第三巻でオーケストラの楽器法と作曲法を配置しており、「移調音部記号に徐々に慣れる」仕掛けが施されている。その記述はまさにチェルニーの「手取り足取り」レヴェルの指導が書き込まれている。「ピアノが活躍する箇所ではオーケストラは控えましょう」といった、常識レヴェルの記述も多い。かつては米国Da Capo社から1980年にリプリントが出されていた。
Op.500では「譜めくりはピアニストの左に座ります」と書かれ、暗譜演奏は強制していない古いタイプのピアニストであったこともわかる。
音楽・音声外部リンク | |
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40番練習曲_No.23_Оp.299 |
交響曲のうち作品番号がついているものは2曲のみだが、ほかにも数曲がある。ニコス・アティネオス指揮による1番・2番・5番(1845年作曲)[9][10]、およびグジェゴシュ・ノヴァーク指揮による2番と6番(1854年初演)[11]の録音がある。
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