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ガイウス・ゲヌキウス・クレプシナ

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ガイウス・ゲヌキウス・クレプシナラテン語: Gaius Genucius Clepsina、生没年不詳)は紀元前3世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前276年紀元前270年執政官(コンスル)を務めた。

概要 ガイウス・ゲヌキウス・クレプシナ C. Genucius L.f. L.n. Clepsina, 出生 ...

出自

プレブス(平民)であるゲヌキウス氏族の出身。父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はルキウスである。紀元前271年の執政官ルキウス・ゲヌキウス・クレプシナは兄弟と思われる。またコグノーメンは異なるものの、紀元前303年の執政官ルキウス・ゲヌキウス・アウェンティネンシスが父である可能性がある。

経歴

紀元前276年、クレプシナは執政官に就任。同僚執政官はクィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲスであった。執政官就任期間中の特筆すべき出来事は、ローマで再び疫病が流行ったことであった[1]

紀元前270年、二度目の執政官に就任。同僚執政官はグナエウス・コルネリウス・ブラシオであった[2][3]。この年に、カンパニアのレギオン(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)を守備していたカンパニア兵が反乱した。両執政官はレギオンを攻略、旧市民のために再建した。反乱兵はローマへ送られトリブス民会で死刑が宣言された。4,500の反乱兵が、一度に300人ずつ処分された。鞭打たれた後に、首の後ろの腱が切断された。埋葬することは許されず、その死体はフォルム・ロマヌムで鳥と犬に処理させた[4]。しかし、凱旋式の栄誉はブラシオのみが得た[5]

エトルリアのカエレ(en)の聖域にある碑文にはプラエフェクトゥスとしてガイウス・ゲヌキウス・クレプシナの名前がある。おそらくこの人物は執政官クレプシナと同一人物である[6]

その後のクレプシナに関しては不明である。またクレプシナのコグノーメンを持つ人物も、その後の歴史に登場しない。

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脚注

参考資料

関連項目

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