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ガイウス・セクスティウス・カルウィヌス
古代ローマの執政官 ウィキペディアから
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ガイウス・セクスティウス・カルウィヌス(Gaius Sextius Calvinus)は共和政ローマの政治家・軍人。紀元前124年に執政官(コンスル)を務めた。
出自
カルウィヌスは、ほとんど無名のプレブス(平民)であるセクスティウス氏族の出身である。氏族ではルキウス・セクスティウス・セクスティヌス・ラテラヌス(リキニウス・セクスティウス法の提案者)がプレブス出身で最初の執政官となったが、その後カルウィヌスまで250年近く執政官を出していなかった。凱旋式のファスティによれば、父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はガイウスであった[1]。
経歴
カルウィヌスは、遅くとも紀元前127年以前には法務官(プラエトル)に就任している[2]。紀元前124年に執政官に就任すると、前年の執政官で前執政官(プロコンスル)として軍を率いていたマルクス・フルウィウス・フラックスに加わり、南フランスでリグリア、サリエス(en)、ウォンコンティイ(en)と戦った。紀元前123年から紀元前122年にかけても、カルウィヌスはプロコンスルとしてインペリウム(軍事指揮権)を継続保有した。
カルウィヌスは現在のエクス=アン=プロヴァンスである「アクアエ・セクスティアエ」(セクスティウスの水)の建設で知られている。敵のエントゥレモント(en)のサルウィヌスオッピドゥム(ガリア人の城市)を破壊した後に、守備兵を置いたのが始まりである[3]。
紀元前120年前後に、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスとクィントゥス・ファビウス・マクシムス・アッロブリギクスはガリア・トランサルピナに遠征してガリア人に勝利し、この地をローマの属州に組み入れた。この遠征にはカルウィヌスも参加して顕著な役割を果たしている。カルウィヌスとフラックスは、長年ローマの同盟都市であったマッシリア(現在のマルセイユ)とすでにローマが支配していたガリア・キサルピナの間に1マイル幅の後方連絡線を確保した[4]。彼自身も紀元前122年に3つのガリア部族に勝利しており、その勝利を讃えた凱旋式を実施している。
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アラ・カルウィニ(カルウィヌスの祭壇)

1829年にパラティーノの丘の西側の下にある聖アナスタシアのバシリカ(en)の近くで小さな祭壇が発見された。祭壇はトラバーチン製で、第二次ポエニ戦争頃からローマでも使われ始めた砂時計の形をしている。その碑文から、この祭壇は紀元前92年頃、カルウィヌスが修復した「Si deus si dea(神か女神か不明だが)」の祭壇であることが分かる[5]。このため。アラ・カルウィニ(カルウィヌスの祭壇)、またはアラ・デル・イグノティ(無名の神の祭壇)と呼ばれ、パラティーノ博物館に収納されている[6]。一般にはカルウィヌスの息子がこの修復を行ったとされているが[7]、古典学者エルンスト・バディアン(en)は碑文研究からカルウィヌス本人であると考えている[8]。
脚注
参考資料
関連項目
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