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ガイ・フォークス

16~17世紀のイギリスの人物、1605年に発生した火薬陰謀事件の実行責任者 ウィキペディアから

ガイ・フォークス
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ガイ・フォークス(Guy Fawkes、[fɔːks]、1570年4月13日 - 1606年1月31日)は、イングランド史において、プロテスタントイングランド国王ジェームズ1世を暗殺し、カトリックの君主に挿げ替えようとした1605年の過激派カトリック教徒らによる火薬陰謀事件の主要メンバーの一人。同事件の首謀者ではないが、現代では「ガイ・フォークス」の名が火薬陰謀事件の代名詞となっており、例えば同事件の解決に由来する11月5日の記念日はガイ・フォークス・ナイトと呼ばれる。また、男を意味する「ガイ(guy)」という単語も彼に由来する。一時期はスペインの軍人としても活動し、その頃に用いていたグイド・フォークス(Guido Fawkes)の名でも知られる。

概要 Guy Fawkes, 生誕 ...

イングランドヨークにてイングランド国教会の定例ミサに参加する敬虔なプロテスタントの家に生まれる。8歳の時に父が亡くなり、その後、母が再婚すると義父の家系の影響でカトリック教徒となり、カトリックの影響が大きい学校で少年期を過ごす。成人後はイングランド軍の兵士としてオランダ独立戦争(八十年戦争)に参加するが、指揮官のウィリアム・スタンリー英語版がカトリック強国で当時の大国であるスペインに部隊ごと寝返ったことで、そのまま自身もスペイン軍の兵士となる。以降はスペインのためにオランダ人政府や、フランス軍(八年戦争)と戦った。その活躍で1603年には大尉に推薦された。一方で、イングランドとスペインに和平の兆しが見えると、スペインによるカトリック解放を期待していた者たちがスペイン政府にイングランドへの侵攻を嘆願する使節団を派遣し(スペイン反逆事件)、フォークスはこの使節団にも関与していた。

1603年にイングランド王としてジェームズ1世が即位すると、多くのカトリック教徒たちはカトリックへの寛容政策を期待していたが、次第に失望に変わった。その一人である過激派のロバート・ケイツビー貴族院ウェストミンスター宮殿)で行われる議会開会式にて、議場を大量の火薬をもって爆破し、ジェームズ及び政府要人らをまとめて暗殺した上で、同時にミッドランズ地方英語版で民衆叛乱を起こし、カトリックの傀儡君主を立てることを計画した。 1604年初頭にフォークスは主要メンバーのトマス・ウィンターに誘われて、これに参加することを決め、イングランドに帰国した。1604年5月の最初の打ち合わせに参加するなど、初期から関わっていた5人の主要メンバーの一人となった。軍人としての経歴と人柄から仲間たちの信頼を得て、計画の要である火薬の管理を任された。そして、主要メンバーであるトマス・パーシーの使用人「ジョン・ジョンソン」(John Johnson)としてウェストミンスター宮殿など政府中枢の建物に潜り込んだ。

しかし、陰謀を密告する匿名の手紙に基づき、イングランド当局は計画決行日の前日である1605年11月4日の深夜にウェストミンスター宮殿の捜索を行い、貴族院の地下室にて、大量の火薬とそれを管理していたフォークスを発見し、計画は露見した。 その場で逮捕・拘束されたフォークスは数日間にわたって尋問や拷問を受け、犯行を認めるものの本名は明かさず、単独犯であることを主張し、仲間についての口は割らなかった。それでも11月7日には抵抗を諦めて本名などを明かしたが、ほぼ同日にケイツビー以下、陰謀に関わった仲間たちは拘束されるか戦闘で死亡していた。

その後の当局の取り調べでは、初期から関わりかつ生存していたトマス・ウィンターの供述と共に、その自白は重要視された。 1606年1月27日のウェストミンスター・ホールにおける裁判では起訴事実に対して無罪を主張したが、大逆罪での首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑が宣告された。 同月31日にフォークスは他の3人と共にウェストミンスターのオールド・パレス・ヤード英語版で処刑される手はずであったが、処刑台において自ら足場から飛び降りることで首の骨を折り自殺した。

後世においては首謀者ロバート・ケイツビーよりも著名であり、先述の通り火薬陰謀事件の代名詞的存在となっている。反体制やアナキズムのシンボルとして用いられることもあり、漫画『Vフォー・ヴェンデッタ』や、ハッカー集団アノニマスのトレードマークとしてガイ・フォークス・マスクが使用されている。

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前半生

要約
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フォークスが洗礼を受けたヨークのセント・マイケル・ル・ベルフリー教会

ガイ・フォークスは1570年にヨークストーンゲート英語版で生まれた。エドワード・フォークスとその妻エディスとの間に生まれた4人の子供のうちの2人目であった。 ガイの両親は彼の父方の祖父母と同様に、イングランド国教会の定例ミサに参加するプロテスタントであり、また祖母のエレン・ハリントンは、1536年にヨーク市長(ロード・メイヤー)を務めた有名な商人の娘であった[1]。 ガイの母の親族は国教忌避のカトリック教徒であり、従兄弟のリチャード・カウリングはイエズス会の司祭になっている[2]。 「ガイ(Guy)」という名前はイングランドでは珍しい名前であったが、これはヨークの名士であるスティートンのサー・ガイ・フェアファクス英語版に由来し、地元では人気のあった名前の可能性がある[3]

ガイの正確な誕生日は不明だが、4月16日にヨークのセント・マイケル・ル・ベルフリー教会で洗礼を受けている。当時の慣習では誕生から洗礼までは3日であったため、おそらく4月13日前後に生まれたと推測される[2]。 ガイの兄弟としては、1568年に母は長女アンを産んだが、同年11月に生後7週間ほどで亡くなっている。ガイの誕生後には2人の妹、1572年生まれのアンと1575年生まれのエリザベスが産まれている。2人はそれぞれ1599年と1594年に結婚した[3][4]

1579年、ガイが8歳の時に父親が亡くなった。母は数年後、ハロゲートのスコットンに住むカトリック教徒のディオニス・ベインブリッヂ(またはデニス・ベインブリッジ)と再婚した。フォークスがカトリック教徒になったのは、ベインブリッヂ家が国教忌避者であったことや、スコットンのプルリン家やパーシー家がカトリックの分派だったこともあるが[5]、ヨークのセント・ピーターズ・スクールに通っていたことも影響していると思われる。 この学校の校長であるジョン・プルリンは、ヨークシャーの有名な国教忌避の家であるブラバーハウスのプルリン家の出身であった。1915年に出版された『The Pulleynes of Yorkshire』の中で、著者のキャサリン・プルリンは、フォークスがカトリック教育を受けたのは、神父を匿っていたことで知られるハリントン家の親戚からであり、その内の一人は、後に1592年から1593年にかけてフォークスのフランドル遠征にも同行していたという[6]。 フォークスの学友には、ジョン・ライトとその弟クリストファー(いずれも後に火薬陰謀事件に加担する)、カトリック司祭になったオズワルド・テシモンドエドワード・オールドコーン、ロバート・ミドルトン(ミドルトンは1601年に処刑)がいた[7]

卒業後、フォークスは初代モンターギュ子爵アンソニー・ブラウン英語版に仕えた。子爵の不興を買って間もなく解雇されるも、18歳で祖父の家督を継いだ第2代モンターギュ子爵アンソニー=マリア・ブラウン英語版に再仕官した[8]。ある資料ではこの頃にフォークスが結婚して息子をもうけたとされているが、これを裏付ける同時代の史料はない[9]

フォークスの人物像について、イエズス会の神父でかつての学友でもあったオズワルド・テシモンドは「気さくで明るい性格であり、喧嘩や争いを嫌い、友人に誠実であった」と評し、その上で「(フォークスは)戦争に長けた人物」であり、信心深さとプロ意識が混在していたために、陰謀の仲間たちから敬愛されたのだと主張している[10]。 著述家のアントニア・フレイザーは、フォークスを「背が高く、力強い体格で、赤褐色の太い髪、当時の伝統である流れるような口髭、赤褐色の逞しい顎鬚を持つ男」と述べ、「行動力があり(中略)知的な議論ができながら、肉体的な耐久力も兼ね備え、敵を驚かすこともあった」と評している[2]

従軍経験

1585年に英西戦争が始まると、レスター伯率いるオランダ遠征軍に参加するため、アイルランドで部隊を編成していたウィリアム・スタンリー英語版の傘下に入った。スタンリーはカトリック教徒だが、50代半ばのベテラン指揮官であり、エリザベス女王からも高い評価を得ていた。ところが、1587年にデーフェンテルが陥落するとそのまま部隊ごとスペインに寝返り、フォークスもこれに従った。以降フォークスはスペイン側の軍人として独立を図るオランダ人政府(オランダ独立戦争)と戦い、1595年から1598年のヴェルヴァンの和約までの間にはフランスとの八年戦争にも参加した。当初はアルフェレス(alférez、下士官)であったが、1596年のカレー包囲戦英語版で活躍し、1603年には大尉に推薦された[10]。1591年10月にはフォークスは父から相続したヨークのクリフトンの地所を売却した[注釈 1]

1603年に後の火薬陰謀事件のメンバーの多くも関与していたスペイン使節団(スペイン反逆事件)[注釈 2]にフォークスも関与していた。当時、イングランド王ジェームズ1世の即位に伴い、イングランドとスペインには和平の兆しが見えていたが、スペインによる侵攻によってカトリック解放を望むイングランドのカトリック教徒たちからすれば避けたいことであった。このため、イングランド国内におけるカトリック教徒の反乱への支援を求めるという形でフォークスはスペインに向かった。この機会を利用して自分の名前をイタリア語的な「グイド(Guido)」に変更し、また、覚書きの中ではジェームズを「異端者」と表現し、「教皇派の人間をすべてイングランドから追放しようとしている」と書いている。また、スコットランドとその貴族たちが重用されていることも糾弾し、「このままでは2つの国を長く和解させておくことは無理であろう」と書いている[11]。 フォークスらは丁寧に出迎えられたものの、フェリペ3世は何ら支援するつもりはなかった[12]

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火薬陰謀事件

要約
視点

1603年にカトリックを弾圧したエリザベス女王が亡くなり、ジェームズ1世イングランド国王に即位した。彼自身はプロテスタントであったものの、彼の母であるスコットランド女王メアリーはカトリックの殉教者と見なされていたため、イングランド国内のカトリック教徒の多くは彼がカトリックへの寛容政策をとるのではないかと期待していた。実際に即位直後は寛容的な態度を見せたものの、妻アンにローマ教皇から密かにロザリオが贈られたことなどが発覚し、1604年2月にはカトリック司祭の国外退去命令が出されたり、国教忌避者に対する罰金の徴収が再開された。これによりカトリック教徒たちは国王に大いに失望した。その中の一人である過激派のロバート・ケイツビーは、議会開会式にて議場を大量の火薬で爆破してジェームズおよび政府要人をまとめて暗殺し、また同時にミッドランズ地方英語版で反乱を起こしてカトリックの傀儡君主を立てることを計画した(火薬陰謀事件)。

計画の始動

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クリスピン・ド・パス英語版による13人の犯人たちのうち、8人を描いた当時の銅版画。右から3番目の人物がフォークス。

1604年2月、ケイツビーはランベスの自宅にて、旧知のトマス・ウィンタージョン・ライトに政府転覆計画を打ち明けた。参加を決めたウィンターは計画への支援を得るために大陸のカトリック勢力に交渉に向かった。ウィンターはカスティーリャ領事館でウェールズ出身の亡命スパイであるヒュー・オーウェン[13]とスペインに寝返った元イングランドの指揮官ウィリアム・スタンリー英語版と会話する機会を得た。事前にケイツビーはスペインからの支援は得られないと予想しており、オーウェンらも同様の見解であった。その代わり、計画への有力な協力者として紹介されたのがフォークスであった。長年イングランドから離れていたフォークスは当時のイングランドでは無名の存在であったが、同世代かつ好戦的でスペインの支援が望めないことを身をもって体験し仲であったためすぐに打ち解けた。フォークスはウィンターから「スペインによる戦争が我らの癒しにならないのであれば、イングランドで事を起こすことを決めている」と誘われて計画に参加することを決意し[10]、1604年4月にイングランドに戻った[14]

1604年5月20日。ロンドンのストランドのすぐ近くにある宿屋ダック・アンド・ドレイクにて最初の会合が開かれ、ケイツビー、トマス・ウィンター、ジョン・ライト、トマス・パーシー、そしてフォークスが参加した[15]。外部から隔離された個室において、5人は祈祷書に秘密の誓いを立てた。偶然だが、ケイツビーの友人で、陰謀を知らないジョン・ジェラード神父が別室で聖餐ミサ)を行っており、その後、5人は聖体を拝領した[16]

政府中枢への潜入

1604年6月9日、パーシーが主君のノーサンバーランド伯から50人からなる国王の近衛隊ジェントルマン・アット・アームス英語版(Honourable Corps of Gentlemen at Arms)に任命された。これはパーシーがロンドンに拠点を持つこと、すなわち怪しまれずに政府機関近くに一味のアジトを作れることを意味していた。こうしてパーシー名義でプリンス・チェンバー(Prince's Chamber)に近い、ウェストミンスターの小さな物件が借りられると、フォークスはパーシーの使用人で建物の管理人ジョン・ジョンソン(John Johnson)として政府中枢近くに潜伏することとなった[17][18]。この建物には、イングランドとスコットランドの統一(合同)計画の検討を行うスコットランドの委員たちも滞在していたため、仲間たちはテムズ川の対岸にあるランベスのケイツビーの宿舎を借り、そこから保管していた火薬やその他の物資を毎晩、船で運び込めるようにした[19]

当初の予定では1605年2月の開会を狙っていたが、12月24日に疫病(ペスト)への懸念から1605年10月3日まで延期されることが公布された。後の裁判による検察側の主張によれば犯人たちはウェストミンスター宮殿の地下までトンネルを掘ろうとしていたとされる。これはトマス・ウィンターの自白に基づくが、フォークスは5回目の尋問まで、このような計画があったことを認めていなかった[20]。 現実論として、トンネルを掘ることは非常に困難であり、また一味にトンネル堀の経験がある者もいなかった[20]。 したがって検察側の捏造とする説もある。

火薬の運び込みと渡航

1605年3月25日、一味はジョン・ホワイニアードが所有するウェストミンスター宮殿の地下室(アンダークラフト)の使用権利を得た。かつての旧王宮の厨房の一部だと思われるここは、1階の貴族院の真下に位置し、未使用で不衛生な場所であり、一味の計画にはうってつけの場所であった[21]。後のフォークスの自白によれば、最初に20樽の火薬を運び込み、続いて7月20日に16樽を持ち込んだという[22]。火薬の売買は政府の専権事項であったが、違法な販売ルートから容易に入手することができた[23]

5月、フォークスは外国の支援を受けるため海外に渡り、ヒュー・オーウェンに計画を伝えた[24]。 この時の状況は実はジェームズの側近・国王秘書長官ロバート・セシル(ソールズベリー伯)のスパイ網によってある程度、把握されていた。ウィリアム・ターナー大尉と思われる諜報員の報告によれば、攻撃計画自体は漠然としたもので火薬陰謀事件に直接関係するようなものは含まれていなかったが、フォークスというフランドル地方の有名な傭兵のこと、彼が4月21日にはイエズス会のオズワルド・テシモンドの手引きでイングランドに入国したこと、また彼が「ケイツビー氏」と「武器と馬を用意している貴族などの名誉ある友人」と引き合わされることなどが記述されていた[25]。 ただし、このターナーの報告書がセシルに届いたのは事件も終わってかなり経った11月下旬のことであり、フォークスがイングランド国内で用いていた偽名ジョン・ジョンソンについても触れられていなかった[10][26]

7月28日にペストの脅威がさらないために議会開会は11月5日火曜日まで再度延期されることが公布された[27]。 フォークスがいつイングランドに戻ったかは不明だが、少なくとも1605年8月下旬にはロンドンにおり、ウィンターと共に地下室に保管していた火薬が腐敗していることを発見した。このため、追加の火薬を、それらを隠す薪と共にさらに部屋に運び込んだ[28]。 10月に行われた一連の打ち合わせで計画の詳細とフォークスの最終的な役割が決まった。開会式が行われる11月5日当日、フォークスは導火線に火を着けた後、テムズ川を渡って逃亡することになった。時を同じくして、他の仲間たちがミッドランズ地方で反乱を起こし、エリザベス王女を確実に確保する。王殺しはそれ自体が嫌悪される行為であったため、フォークスは大陸へ向かい、カトリック勢力に国王とその側近らを殺害したことは聖なる義務であったと説明することになった[29]

陰謀の露見

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火薬陰謀事件の露見とガイ・フォークスの逮捕(ヘンリー・ペロネ・ブリッグス作、1823年)

10月26日の夜、貴族院議員であるモンティーグル男爵に匿名の手紙が送られてきた[30]。 手紙には開会式への出席を控えることや、出席者が「酷い打撃(blow)」を受けることなどが警告されていた[31]。 予てより仲間の中には開会式に出席するであろう同じカトリック教徒や親しい関係の議員を心配する者もおり、モンティーグルは新参の仲間フランシス・トレシャムの義弟であった。この手紙の存在はライト兄弟と親しい男爵の使用人を経由して、ケイツビーらもすぐに把握した。ケイツビーとトマス・ウィンターはトレシャムを疑い、詰問したが、最終的にはいたずらだと判断し、計画を続行することを決めた[32]。 フォークスは10月30日に地下室を確認し、何も問題はないと報告した[33]。 計画前日の11月4日、フォークスは仲間のロバート・キーズから導火線の時間を計るための懐中時計を受け取り、地下室へと向かった[10]

ケイツビーらは軽視したがモンティーグル男爵は手紙を即座にセシルに報告していた。11月1日、狩りよりロンドンに帰ってきたジェームズはセシルよりモンティーグルの手紙の報告を受け、その「打撃(blow)」という単語に疑念を抱いた。11月4日に国王直々の命令によって貴族院周辺の探索が行われることとなり、宮内長官英語版トマス・ハワード、モンティーグル、ジョン・ホワイニアードの3人は貴族院地下室で大量の薪を発見した。この時、その場にいた使用人と思わしき男を事情聴取のため連行したが、これはフォークスであったと考えられている。この時、火薬は発見されず、この使用人は解放されたが、報告を受けたジェームズは更なる探索を命じた。深夜、トマス・ニヴィット率いる探索隊は貴族院地下室にてフォークスを発見して拘束し、同時に地下室の薪や石炭の山の下に隠された大量の火薬樽の存在も明らかとなった[34]

拷問

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ロンドン塔拷問台
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フォークスの供述書の署名部分。拷問の直後になされたものであり、"Guido"(グイド)の部分は他と比べて筆跡が弱い走り書きになっている。

ジョン・ジョンソンと名乗ったフォークスは、まず枢密院のメンバーに尋問されたが、彼は反抗的な態度を崩さなかった[35]。 この時、大量の火薬を持っていて何をしようとしていたのかと問われたフォークスは「スコットランドの乞食どもを故郷の山に吹き飛ばしてやろうとしたのさ」と答えている[36]。 また、フォークスは身元については、ヨークシャーのネザーデールに住む36歳のカトリック教徒で、父親の名前はトマス、母親の名前はエディス・ジャクソンと名乗っていた。体の傷について問われると、かつて患った腹膜炎のせいだと答えた。 フォークスは貴族院を爆破しようと企てていたことを認めた上で、未遂に終わったことを悔やんだ。この胆力についてはジェームズからも称賛され、彼より「ローマ人のような決断力を持っている」と評された[37]

しかしながら、11月6日にジェームズは「ジョン・ジョンソン」に対する拷問を許可し、共謀者の名前を明らかにするよう命じた。ただし、最初は手枷を使った軽い拷問とし、必要に応じて厳しい拷問、特に拷問台(ラック)の使用を許可した[35][38]。 フォークスはロンドン塔に収監された。ジェームズは「ジョンソン」に質問するリストを作成し、これには「何者なのか。未だ彼を知る者がいない」「いつ、どこでフランス語を覚えたのか」「教皇派であるのであれば、誰が教皇派に育てたのか」などがあった[39]。 フォークスが尋問を受けた部屋は、その後「ガイ・フォークスの部屋」として知られるようになった[40]

ロンドン塔副長官(Lieutenant of the Tower)であるウィリアム・ワッド英語版は拷問を監督し、フォークス(ジョンソン)の自白を得た[35]。 彼は宛名がガイ・フォークスの手紙を見つけた。「ジョンソン」が沈黙を守り、計画や発案者については何も語らないことはワッドを驚かせた[41]。 11月6日の夜、彼はワッドと話をし、ワッドはセシルに「彼(ジョンソン)は、この行動を起こして以来、毎日神に祈って、カトリックの信仰の向上と自分の魂の救済につながることを実行できるようにしたと言っていた」と報告した。ワッドによると、フォークスは「彼の心の奥底にある秘密と共犯者全員を把握するまで尋問する」と警告されていたにもかかわらず、夜通し休むことができたという[42]。 翌日、彼の冷静さは失われた[43]

立会人のサー・エドワード・ホービーは「ジョンソンが塔に入ってから、英語を話すようになった」と評している。 フォークスは11月7日に自分の正体を明かし、国王殺害の計画には5人が関わっていると尋問官に話した。11月8日、フォークスは5人の名前を明らかにし、彼らがエリザベス王女を王位に就けようとしていることを語った。11月9日の3度目の告白では、フランシス・トレシャムが関与していることが明らかになった。1571年のリドルフィ陰謀事件英語版に倣い、記録官が記した自白の口述調書を、囚人たちは自らの手で書き写すように迫られ、そこに署名を入れるよう迫られた[44] 。 拷問を受けたかどうかは定かではないが、フォークスの走り書きのような署名の筆跡は、彼が尋問者の手で受けた苦痛を示唆している[45]

なお、11月8日朝にケイツビーらが滞在していたホルベッチ・ハウス英語版が州長官の部隊に急襲され、ケイツビーやライト兄弟らが死亡し、生き残ったトマス・ウィンターらは捕縛された。トマス・ベイツエバラード・ディグビーなど、その場にいなかった者も間もなく全員が逮捕された。

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裁判と処刑

要約
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フォークスの処刑を描いた銅版画(クラース・ヤンスゾーン・フィスヘル作、1606年作)

1606年1月27日月曜日、フォークスを含めこの時点で生きていた8名の裁判が行われた。フォークスはロンドン塔より、同様に拘束されていた6名と共に平船で移送された[注釈 3]。まず星室庁、続いてウェストミンスター・ホールに連行され、専用の台座の上に晒された。国王とその家族も密かに参席していたが、枢密院顧問(Lords Commissioners)が罪人らの罪状を読み上げる際には普通の傍聴人となっていた。フォークスはグイド・フォークスと名乗り、「別名グイド・ジョンソン」と呼ばれた。フォークスは捕まった時から罪を認めていたにも関わらず、この時は無罪を主張した[47]

陪審員は被告人全員を有罪とし、裁判長のジョン・ポパム英語版は彼らに大逆罪を宣告した[48]。 司法長官エドワード・コークは被告ら死刑囚は、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑によって処刑されることを述べた。すなわち、彼らは「天と地の中の狭間において、両方に相応しくない死を迎える」というものであり、死刑囚の一人一人が頭を地面につけた状態で馬に引き回され、性器は目の前で切り取られてから焼かれ、腸と心臓も取り除かれる。その後、斬首されて身体がバラバラにされ、その一部は「野鳥の餌」となるように晒されるということであった[49]。 スペイン反逆事件に関してフォークスとトレシャムの証言が読み上げられ、火薬陰謀事件に関連する告白文も読み上げられた。 最後に提示された証拠は、隣接する独房に入れられていたフォークスとウィンターの会話であった。二人は内密に会話を交わしているつもりであったが、当局のスパイがその会話を盗み聞いていた。これらに対し、フォークスは起訴状の内容を知らぬがゆえに無罪を主張したのだと弁明した[50]

1606年1月31日、フォークスは他の3人(トマス・ウィンター、アンブローズ・ルックウッドロバート・キーズ)と共にロンドン塔から爆破を計画していた建物の反対側にあたるウェストミンスターのオールド・パレス・ヤード英語版に、ハードルに固定され引き回される形で連行され、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された。先に仲間たちが処刑されていく中で、フォークスは最後に処刑台に立たされた。彼は国王と国家に赦しを請いつつ「十字架と無意味な儀式」(カトリックの習慣)を続けた[51]。 拷問で既に身体が弱っていたフォークスは、絞首刑執行人の助けを受けながら絞首縄のある梯子を登っていたが、飛び降りたのか、もしくは高すぎて絞首縄の設定を誤ったのか、首の骨を折って死亡し、後半の処刑の苦しさを免れることができた(首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑では首吊りでは殺されず、その後、生きたまま内臓を抉られる)[35][52][53]。その後、フォークスの死体に四つ裂き刑が施され[54]、慣習に従って[55]、身体の一部は「王国の四隅」に分配・運ばれ、他に反逆を企てる者たちへの見せしめとして晒された[56]

後世への影響

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ガイ・フォークス・ナイトの行列を描いた挿絵(1864年)
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ガイ・フォークス・ナイトの準備をする子どもたちの写真(1954年)

1605年11月5日、ロンドン市民に国王が暗殺の危機を免れたことを祝うための焚き火を行うことが称され、条件として「このテストモニー(testemonye)は危険や混乱がないように慎重に行うこと」が課されていた[10]。 その後、議会は「11月5日遵守法英語版(Observance of 5th November Act)」、通称「感謝祭法(Thanksgiving Act)」を可決し、毎年11月5日は感謝の日として祝うことになり、これは1859年まで続けられた[57]。 フォークスは計画に関与した13人の内の1人であったが、この計画の最重要な人物と見なされた[58]

イギリスにおいて11月5日は、ガイ・フォークス・ナイト(Guy Fawkes Night)、ガイ・フォークス・デイ(Guy Fawkes Day)、ボンファイア・ナイト(焚火の夜、Bonfire Night)、ファイアワークス・ナイト(Fireworks Night)、プロット・ナイト(陰謀の夜、Plot Night)[59]など様々な呼び名がある(これらはすべて1605年11月5日の祝祭に直接の源流を持つ)[60]。 1650年代以降に、焚き火には花火が伴うようになり、1673年以降には推定相続人であるヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)がカトリックに改宗した際に、(通常はローマ教皇の)人形を燃やす習慣が定着した[10]。 他にもポール・クリューガーマーガレット・サッチャーなどの著名人の人形も焚き火にくべられることがあったが[61]、現代ではほぼフォークスの人形が一般的である[57]。 「ガイ(guy、男)」は通常、子供たちが古着や新聞紙、覆面などを使って製作する[57]。 19世紀には "guy" は奇抜な格好の人を指す意味となったが、多くの地域では侮蔑的な意味合いを失い、代わりに男性全般を指す言葉となった。また、複数形は性別を問わないで複数人を指す言葉となっている(例えば 「"you guys"(あなたたち)」のように)[57][62]

ヨーク大学の歴史学教授であるジェームズ・シャープは、ガイ・フォークスが「正直な心持ちで議会に参加した最後の男」と称されるようになった経緯を説明している[63]。 ウィリアム・ハリソン・エインズワースが1841年に発表した歴史ロマン小説『ガイ・フォークス、あるいは火薬の反逆者(Guy Fawkes; or, The Gunpowder Treason)』では、フォークスは概ね同情的に描かれ[64]、この小説によってフォークスに対しての一般の認識は「受容される架空の人物」へと変化していった。その後、フォークスは1905年頃に出版された『The Boyhood Days of Guy Fawkes; or The Conspirators of Old London』などの児童書やペニー・ドレッドフルに「オーソドックスなアクション・ヒーロー」として登場した[65]。 歴史家のルイス・コール英語版は、フォークスは現在「現代政治文化の主要なアイコン」であり、その顔は20世紀後半に「ポストモダンのアナキズムを表現するための強力な手段となる可能性を秘めている」と述べている[66]

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脚注

参考文献

外部リンク

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