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クレメンス6世 (ローマ教皇)
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クレメンス6世(Clemens VI、1291年 - 1352年12月6日)は、アヴィニョン捕囚の時期のローマ教皇(在位:1342年 - 1352年)。フランス王国出身で、本名はピエール・ロジェ(Pierre Roger)[1]。寛大な性格だったため、枢機卿の全会一致で選出された[2]。教皇として豪奢な生活を送って教皇領の財政を悪化させた[1]。任命した枢機卿25人の大半がフランス出身だったうえ、ネポティズムを隠そうともせず、12人が自身の親族だった[1]。対神聖ローマ帝国ではルートヴィヒ4世と対立したが、次代のカール4世は教皇に友好的だった[2]。
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生涯
要約
視点
教皇選出以前
1291年、フランス王国のシャトー・ド・モーモン(Château de Maumont、現コレーズ県ロジエ=デグルトンにあるシャトー)で生まれた[1]。10歳のときにベネディクト会のラ・シェーズ=デュー修道院に入った後、パリ大学を卒業して教授になった[1]。ピエール・ゴーヴァン・ド・モルトマール枢機卿から教皇ヨハネス22世に紹介されると、ニームにあるサン=ボーディル(Saint-Baudil)小修道院の院長、次いでフェカン修道院の院長に任命され、1328年にアラス司教、1329年にサンス大司教に昇進、1330年にルーアン大司教に転じた[1]。1338年、ベネディクトゥス12世によりサンティ・ネレオ・エ・アキレオ聖堂を名義教会として司祭枢機卿に任命された[1][2]。
教皇選出
ベネディクトゥス12世の死去を受けてアヴィニョンでコンクラーヴェが行われ、1342年5月7日に17人の枢機卿により全会一致で教皇に選出された[2]。フランス王フィリップ6世は息子ジャンを使者としてコンクラーヴェに派遣し、ロジェが選出されるよう仕向けようとしたが、どちらにせよ枢機卿たちはベネディクトゥス12世の強硬さを嫌い、より寛大なロジェを選出する意向であり、フィリップ6世の介入は実際には不必要だったとされる[2]。ロジェは教皇として寛容であるべきと考えて、教皇名に寛容を意味する「クレメンス」を名乗った[2]。5月19日、アヴィニョンで戴冠した[2]。
教皇として
教皇領の統治
1343年、ローマ市民代表団の要請を受けて教皇勅書ウニゲニトゥスを出し、聖年の間隔を100年から50年に短縮し、1350年]を聖年とした[1]。市民代表団は教皇のローマ帰還を訴えたが、クレメンス6世はこれを辞退した[1]。その後、1350年の聖年では多くの巡礼者がローマを訪れた[1]。ウニゲニトゥスでは祈りをして、罪の償いを行うことで罪を軽減できることが定められており、その手段が後に贖宥状と呼ばれ、16世紀の宗教改革を引き起こすこととなった[2]。
市民代表の1人であるニコラ・ディ・リエンツォ(通称コーラ)が1347年5月20日にローマ護民官となって実権を握ると、クレメンス6世は一時コーラによる統治を認めたが、コーラがローマ市民を教皇からも神聖ローマ皇帝からも独立であると主張すると、コーラを批判して破門に処し、コーラは同年12月15日に失脚した[1][2]。
1348年3月、ハンガリー王子アンドラーシュ暗殺に関わる裁判でナポリ女王兼プロヴァンス女伯ジョヴァンナに無罪判決を下した[3]。同年6月9日にジョヴァンナからアヴィニョン市を8万フローリン金貨で買い取り、アヴィニョン捕囚がしばらく続きそうに見えた[1]。アヴィニョン捕囚が終わる時期は、1370年にクレメンス6世と同名の甥がグレゴリウス11世に選出され、ローマへ帰還した1377年である。
1348年1月頃からアヴィニョンがペスト禍にさらされており、この間にクレメンス6世は新しい墓地のための土地を買い入れ、瀕死の病人全てに赦免を与え、病気の原因を探るために医師による死体解剖を許可し、ユダヤ人迫害を弾劾する勅書を出した。しかしなすすべなく、同年5月にはエトワール=シュル=ローヌ(現ドローム県、アヴィニョンより北北東)に避難した[4]。
イタリアの教皇派と皇帝派をめぐり、教皇派の強化を図ったが失敗し、ボローニャを政敵のミラノ大司教ジョヴァンニ・ヴィスコンティに12年間譲ることを余儀なくされた[1]。ロマーニャの再併合にも失敗している[2]。
外交
教皇としてフランス寄りの立場をとり、フランスとイングランド王国の百年戦争に仲介役として介入したが、1343年に締結されたマレトロワ休戦協定は短期間しか続かなかった[1]。
ヨハネス22世の代から対立している神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世とは対立を続けた[1]。ルートヴィヒ4世はチロル伯領の相続人マルガレーテ・フォン・ティロルとボヘミア王子ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルクの結婚を無効にし、自身の息子ルートヴィヒをマルガレーテと結婚させたことで支持を失っており、支持を挽回すべく1343年9月にクレメンス6世への手紙で譲歩をほのめかした[1]。すなわち、ルートヴィヒ4世がそれまでの皇帝としての勅令を無効とし、教皇による罰を受ける代償として、ローマ王として教皇から承認されることを求めた[1]。クレメンス6世はルートヴィヒ4世の勅令が教皇庁から承認されるまで施行停止とし、ルートヴィヒ4世が任命した司教と大修道院長を全員解任し、さらに教皇領、シチリア、サルデーニャ、コルシカへの領土請求をすべて取り下げることを条件とした[1]。ルートヴィヒ4世はこれらの条件をドイツ諸侯に提示した[1]。ドイツ諸侯の間ではプラハ大司教区の分割(1344年)をめぐって反教皇感情が高まっており、これらの条件は受け入れられるものではなかった[1]。
クレメンス6世はさらに1346年4月7日にルートヴィヒ4世を支持するマインツ大司教ハインリヒ3世・フォン・フィルネブルクを解任し、代わりにゲルラッハ・フォン・ナッサウを任命した[1]。そして、同年4月13日には教皇勅書を出してルートヴィヒ4世を批判し、選帝侯に新皇帝の選出を促した[1]。同年7月11日に選出されたカール4世(ヨハン・ハインリヒの兄)はクレメンス6世の要求を飲み、ルートヴィヒ4世が1347年10月に急死したことでドイツにおける内戦が回避された[1]。
1344年ごろにカスティーリャ王国のルイス・デ・ラ・セルダにカナリア諸島の領有権を与え、ルイスはカナリア諸島への宣教に同意したが、結局カナリア諸島を支配できなかった[1]。
教会の長として
クレメンス6世は豪奢な生活を過ごし、「どんな君主も、金遣いの派手さでかなう者はなく、気前のよさでも匹敵する者はいない」、白テンの毛皮を1080枚も所持し、「ギャンブルや競馬」に打ち興じ、「教皇の宮殿は……時間を問わず、つねに女性を歓迎」していたという[5]。アヴィニョン教皇庁の増築もあって[2]教皇領の財政が悪化したため、クレメンス6世はより多くの聖職任命権を手中に収めることで対処しようとしたが、諸国の反発を招き、イングランド王エドワード3世は聖職禄付きの聖職任命について1351年に後継聖職者法を制定した[1]。
在任中に枢機卿を25人任命したが、その多くがフランス出身であり、しかも12人がクレメンス6世の親族だった[1]。
東西教会の合同をめぐり、ギリシャ正教会、アルメニア使徒教会との合同を目指したが、東方教会は教義の統一より対イスラム教諸国戦争の援助を望み、議論は進まなかった[1]。クレメンス6世は対応として1344年にスミルナ十字軍を行った[1]。
教皇として鞭打苦行者を批判した[1]。
死去
1352年12月6日、短期間の病気を経てアヴィニョンで死去した[1]。遺体ははじめアヴィニョン大聖堂に埋葬されたが、翌年4月にクレメンス6世の遺言に基づきラ・シェーズ=デューに改葬された[2]。ユグノー戦争の最中の1562年、カルヴァン派がクレメンス6世の遺体を掘り起こして燃やした[1]。
1352年12月18日、後任の教皇にインノケンティウス6世が選出された[2]。
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出典
参考文献
関連文献
外部リンク
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