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クール司教領
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クール司教領 (ドイツ語: Hochstift Chur, Fürstbistum Chur, Bistum Chur) は、クール(現スイス領)に存在した司教領。神聖ローマ帝国の直属身分であり、ゴッテスハウス同盟の盟主でもあった[1]。クール司教領はクール近郊からエンガディン地方まで、またヴィンシュガウ渓谷までを支配していた[2]。
歴史上の国家であるクール司教領は、現在まで続いているクール司教区と区別する必要がある。



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歴史
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クール司教区は451年に創設され、アシニオ(Asinio)が初代司教となった[3]。1170年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が司教区を諸侯としての司教領に格上げした[4]。
1621年10月、バルディロン縦隊長という者が率いる8000人のオーストリア軍が、クール司教領とゴッテスハウス同盟を攻撃し、同年11月22日にクールを占領した。その後の和平交渉により、クール司教領は下エンガディンをオーストリアに割譲し、オーストリア軍のクール駐屯と司教領内の道路使用を認めた[5]。1624年10月27日、Coeuvres侯率いるフランス・スイス軍8000人がクールのオーストリア軍守備隊を襲撃した。オーストリアは春に守備隊の大部分を引き上げていたため、フランス軍は瞬く間に穴だらけの防衛体制を突破し、クールとその周辺を制圧した[6]。15世紀から16世紀の原初同盟のアルプス越えの時代には、クール司教領はヴァルテッリーナ、ボルミオ、キアヴェンナを支配下に収めていた[7]。
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クール司教叙任権
聖界諸侯であるため、元首たる司教は本来ローマ教皇に任命されるものであった。しかしクール司教は、少なくとも1440年の例では、新しい司教が就任する際に教皇エウゲニウス4世ではなくマインツ選帝侯が承認を行っている[8]。1441年には、コンスタンス司教ハインリヒ・フォン・ヒョーヴェンがクール司教を兼ねた[9]。1447年1月12日、エウゲニウス4世は神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世への教皇勅書で、皇帝がクール司教の叙任権を終身保有することを認めた[10]。
司教の一覧
脚注
参考文献
外部リンク
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