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グランドゥフティ (ギオルギ1世の娘)
ジョージアの政治家 ウィキペディアから
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グランドゥフティ(グルジア語: გურანდუხტი、グルジア語ラテン翻字: Gurandukhti、1072年以前没)は、ジョージア王ギオルギ1世と、最初の王妃マリアムの娘である。グランドゥフティは兄バグラト4世の治世下でジョージアの政治に積極的に関与した[1]。
政治活動
1050年代、クルデカリ公リパリト4世の反乱により、バグラト4世はビザンツの宮廷に追放された。このとき、グランドゥフティは幼い息子ギオルギ2世の「庇護者」(パトロン)となった。ギオルギ2世は、父バグラトがコンスタンティノープルに不在の間に、国王として即位した。グランドゥフティはビザンツ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスに対し、バグラト4世をジョージアに帰国させるよう要求した[1]。その後、リパリト4世が失脚すると、グランドゥフティはバグラト4世の権威回復に尽力した[2]。
結婚と家族
ジョージアの年代記『カルトリ・ツホヴレバ』の一つ「カルトリ年代記」によると、グランドゥフティはロリ王キュリケ2世の弟スムバトと結婚した。1064年、セルジューク朝のスルタン・アルプ・アルスラーンがジョージアに侵攻した。バグラト4世は和平協定の一環として、グランドゥフティの娘をアルプ・アルスラーンに嫁がせることを計画した。しかし、グランドゥフティの義兄であるロリ王キュリケ2世の同意を得られなかった。その後の紛争で、キュリケ2世はバグラト4世の配下によって捕らえられ、要塞都市サムシヴィルデをバグラト4世に明け渡すことを余儀なくされた。最終的に、グランドゥフティの娘はアルプ・アルスラーンと結婚した[2]。その後、グランドゥフティの娘はセルジューク朝のワズィール(宰相)で学者でもあったニザーム・アル=ムルクと再婚し、後の宰相となるアフマドをもうけた[3]。グランドゥフティの娘がどのような経緯でニザームの後宮に入ったかは明らかになっていない[4]。
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参考文献
外部リンク
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